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戦国歴史散歩
   
安土城
 
 新幹線の米原で途中下車し、東海道線で琵琶湖沿いに20分位で安土に着く。今この駅に降り立つと、粟津駅より閑散としている。

 信長は城下町を当時でも現在でも画期的というべき楽市楽座とした。市が一里以上も連なり喧騒を極めたという。楽市とは自由無税市場のことであり、楽座とは独占特権商工業者団体の否定である。当時の常識では、城下町へはよそ者の出入りを制限し、関所を作り、通行税を取り、座から上納金を取るのが当たり前であった。信長はその逆をやり、町は経済的に繁栄した。

 信長のような人材は日本の歴史1500年をを振り返っても明治維新の時以外は出て来ない。すでに奈良時代から日本は官僚制の弊害に悩まされているのだから、その根は深い。

 駅前の自転車屋で子供と自転車を借り、駅のすぐ横の農道を10分位行くと、田んぼの真ん中に緑うっそうとした安土山(標高199m)に着く。麓には、城郭らしき濠も石垣も今はない。信長が馬を乗り回し、数万の兵を閲兵したはずの馬場もない。一面の田があるのみである。

 大手側から山に登ると、古い石段がどこまでも続いている。山頂はそれほど広くはないが、頂上全体が天守台跡であり、今は石垣と基礎石を残すのみである。頂上全体を正方形に囲んだ石垣の一辺は約25m、基礎石の一辺は私の歩幅で20歩であった。石垣の上から見降ろす琵琶湖の眺めは抜群である。この上に、信長は木造七階建の大天守閣を築いた。この山頂の足場の悪いところに雲を突くような大天守を建てることの困難さは想像を絶するものがある。しかも各層毎に色分けされた豪華な外装、最上部は総金箔、狩野永徳の障壁画、当時の日本美術の粋を極めた絢爛豪華な大天守閣が、かつてここにあったのである(安土駅にその模型がある)。

 同じ山城でも彦根城などは、ここよりはるかに広い山頂の足場のよいところに、これよりはるかに小さい天守閣があるだけであるが、それでも昔の雄姿を維持している天守は遠望する者に威容を誇っている。その数倍の安土城天守がどれほどの威容であったことか。信長は天正4年から7年までの建築中も戦いを継続していた。大阪の石山本願寺攻め、その背後を突こうとした上杉謙信と小松の今江潟、木場潟辺りでも戦い、秀吉には中国経略のため三木城攻めもやらせている。甲斐の武田勝頼を滅ぼした後、家康は信長を表敬訪問した。その時、能の接待をしたという總見寺の塔だけが現在も残っている。明智光秀がその接待をめぐり信長にしかられたというのが歴史小説の筋書であるが確証はない。私は、光秀の官僚主義的傾向に信長が怒ったのではないかと想像している。信長は重臣佐久間信盛や林佐渡守ですら無能とみれば直ちに失脚させた。光秀はこれに恐怖を感じて謀反を起こしたのであろう。しかし所詮、官僚は秀吉の敵ではなかった。

 信長が心血を注いだこの世界的名建築も、天正7年の竣工後わずか3年で本能寺の変となり、信長とともに焼失した。残されたのは今ここに見る山と石垣のみである。石垣の上で、信長の時代に浸りきり、琵琶湖の景観を見あきることなく見ている私に、下の息子(将之)が「早く帰ろうよ」と大声で言う。自転車で帰る途中、あと一山登れば、佐々木道誉の観音寺城跡まで行けそうであったが、「早く帰ろうよ」という子供に、これ以上石垣だけを見せ続けるのは無理かなと思いつつ帰路についた。
   
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