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日本の歴史はせいぜい紀元600年以降の飛鳥時代からはじまる。今日までわずか1400年である。それ以前は文字はなく考古学の世界である。中国は紀元前1400年の商(殷)の時代に文字を持った。歴史の記述が先にあり、「史記」の記述はとても信じがたいとされていたことが最近の考古学的発掘により裏付けられ、驚かれることが相次いでいる。秦の始皇帝の兵馬俑もその一つである。日本の歴史は荒唐無稽な神話で始まるが中国の歴史は堯舜禹の仁政と治水による人民救済から始まる。宮城谷昌光の歴史小説には、夏が商に破られ、商が太公望と周に破られ、晏子、孟嘗君が活躍し、始皇帝に至るまでの春秋戦国史が実にリアルに描かれている。紀元前に本当にこのようなことがあったのだろろうか、ともかく現地が見たくなり、中2の息子を連れて行った。
成田を飛び立った西安直行便はわずか3時間半で咸陽飛行場に着く、西安まで車で約1時間、周囲は一面のトウモロコシ畑である。黄色い乾いた土壌が波のようにうねり、所々に断層があり古墳も点在する。見渡す限り森や林は全く見えない。古代から伐採のし過ぎであろう、何と荒涼たる景色だろう。
西安は唐の都長安でもあり、遣唐使阿倍仲麻呂が苦難の末たどりつたところである。 邑を囲む城壁が中国の歴史に付き物であり、そのイメージをつかみたいというのがこの旅の目的の一つであったが、西安の西の城門へ登ればよく分かる。煉瓦で固めた城壁は、高さ12mもあり壮観だ。頂部に13mの幅の通路があり、兵を重厚に配置することも、走り回ることもできる。底部は16m、120m毎に凸部や楼があり、東西、南北に約3q、周囲12q、唐の時代はこの9倍だったというからかなり大きい。万里の長城の規模たるや絶句するしかない。しかしこれらの膨大な煉瓦を焼くために森林は伐採され尽くしたのである。
西安には木造の建物はほとんどない。城門や鐘楼は煉瓦の城壁上に木造部分がわずかに残っているが、日本の法隆寺や東大寺に比べると貧弱である。これほど木のない環境では唐の都長安だった時代も、煉瓦または泥造りの家が多かったのだろう。朱雀門も堅牢な城門であり、日本の朱雀門や羅生門とはかなり違うイメージだ。
西安郊外の始皇帝の兵馬傭の実物の迫力には圧倒される。兵は170〜180pの大男ばかりだ、将軍は190pもある。1号抗だけでも、それぞれ本物の兵士を髪の毛から足の裏まで忠実に写実した生き生きした6000体の兵士の傭が軍陣をとっている。現在4号抗を発掘中だ。1万人以上が埋まっているのだろう。紀元前200年の始皇帝古墳から1.5qも離れた所から2万u以上の地下構造物と精巧な兵馬陣が、史記の記載どおりにあったことは驚きだ。紀元後400年頃の日本の大山古墳(仁徳天皇陵といわれているが誰のものか文字の資料はなく不明)は世界一の規模などと戦前は言われていたが、これを見ると雲泥の差である。日本の埴輪に至っては子供のおもちゃレベルだ。古墳の西20mに埋まっていた始皇帝車駕の精巧な銅車馬は金と銀の融点の違う金属が細かく溶接されており、この青銅器冶金技術は恐るべき水準だ。その後の漢の時代の兵馬傭ははるかに小ぶりの30〜40pのものだから、秦の時代は史上最高水準であり唖然とするばかりだ。
秦の統一は、戦国の競争の到達点であるが、そこに至る経過の方が面白い。 歴代の秦王は、有能な人材(宰相)の登用、大胆な政策転換を機敏に行った。魏が捨てた無名の商暎を宰相に採用し、鄭国による大規模な治水、韓非子の高度な法治主義、これらの変革の意欲には驚かされる。しかし徹底した合理主義とテクノロジーの優先は一時的な国力強化をもたらすが、仁と徳に欠けた政治は後の世代からは尊敬されない。晏子や孟嘗君の時代の方が今日からみれば素晴らしい。
現代の日本も、画一的な知識詰め込み教育と、テクノロジーと利益追求ばかりが優先されているが、このような社会は二千年後に尊敬されるとは到底思えない。
西安から洛陽まで、東京から京都ほどの距離を道路事情の悪い中、乗用車で行く旅はきつかったが、古代人は馬車や徒歩で行き来したのだ。その行動範囲の広さには驚かされる。
黄河沿いの中原諸国を古代人と同様に、秦から晋(魏、韓)穫、廬等を経て東周の都、洛陽に行くと思えば、感慨深い。
途中、森林をもった山は全くない、浸食台地のような黄土の丘が延々と続く。土を乾かしただけの煉瓦造の家ばかりで、木造の家は全くない。憧関では曲がりくねった谷底を走るが周りは山というより浸食台地で、ここで伍子胥が山賊と戦ったはずだが、山賊が潜むような森すらない。
函谷関に着いたときは、ついに来たかと感激した。孟嘗君だけがこの函谷関を攻め破った。
「箱根の山は天下の嶮、函谷関も、ものやらず」なんてことはありえないと思っていたが実際に、函谷関の両側の山はあきれるほど低い。山と言うより丘だ。この谷道は黄河の支流の川底だったところが川が干上がって狭い道になったもので道の両側には川砂利の層がある。両側は黄土の川岸の高台に過ぎず、せいぜい30〜40mといったところだ。箱根の山の方がはるかに峻険であり、歌の作者は函谷関を実際に見たのかと驚いた。これを見れば秦は函谷関のみにより守られまた勝ったものではないことは明らかだ。
周が凋落した紀元前771年、都を洛陽に東遷してから春秋戦国時代がはじまる。始皇帝の統一までの500年間、百家争鳴し、思想文化が驚異的発展を遂げる。荀子、孔子、孟子、韓非子、晏子、孟嘗君、孫子、等々、今日の我々も学ぶべき人間としての生き方の知恵は余りにも多い。
現代の日本は、テクノロジーや利益追求ばかりを優先し、仁や徳や礼を全くないがしろにしている。
「人への思いやり」「私利私欲を離れた高い品性」「社会の潤滑油たる最小限の礼儀」は、人間社会が高級な文化を維持するためには普遍的に必要なものだ。これのない社会や文化は早晩自己崩壊し後世からから嘲笑されるだけだろう。明治維新を行った人たちに私利私欲が少ないのは江戸末期の下級武士にいたるまでこの教育が行き届いていたことがあったからだ。その後の日本は欧米に追随し過ぎて中国の歴史に学ぶことを忘れ、仁徳のかけらもない横暴な植民地主義に走ってしまった。孫子の兵法を読めば日中戦争や太平洋戦争はとても始められたものではない。
せっかく来た洛陽だが、私が見たいと思った周や漢や魏の遺跡は何も残っていない。 しかし黄河沿いの中原諸国の土壌はだいたい分かった。文明が余りに早く発展することは森林が破壊されるということである。堯、舜、禹は治水を唱えたが、むしろ森林を守ることを唱えるべきであった。地球規模で物事を考えることができない時代の限界であろう。但し孟子の巻十一には、「牛山は、以前は樹木鬱蒼とした美しい山であったが、大勢の人が斧や斤でつぎつぎ伐り倒してしまったので、今はつるつるの禿げ山である。人間の心も本来美しいのだが、物欲という斧や斤で、毎日伐り去れば悪となるのだ」というくだりがある。
現代の日本人は、地球の現状を十分知りながら、なおも森林を破壊し続けている。人間を蝕むことを十分知りながら、ダイオキシンやディーゼル排ガスその他の公害をまき散らし続けている。それを輸出までしている。すべて利益追求のためである。何と仁徳のないことか。
「小人は利に聡く」、「君子は徳を思う」は、2500年を経た今日でも、全く輝きを失っていない。
社会主義はその理念通りにいけば仁徳の制度となるはずであるが、社会主義の下でも仁徳が浸透することはなかったし、かえって仁徳のない人達が社会主義を運営するととんでもないことになることはソ連の崩壊で証明された。
戦前の日本の修身教育では、仁徳を「苦難に耐え盲目的にお上に従うこと」にねじまげ徹底的に支配の道具に使われた。現在も「日の丸、君が代」とともに徳目教育の復活が叫ばれているが、これは戦前への復古をねらうものである。仁徳のない人間によって「仁徳」が語られると恐ろしいことになる。だからといって仁徳をタブーとしてはならない。プロテスタンティズムの倫理も仏教的倫理もない現代の日本で、仁徳を否定しては早晩、学校だけではなく社会も崩壊する。
民主的で自由闊達な仁徳の体系を提起する必要があると思う。
孔子孟子が政治的に挫折し、以来2500年後の今日まで、仁徳があまねく行きわたる社会が実現されることがなかったということは、孟子の説とは逆に、人間の本姓とは、本来、欲得の固まりであり、よほど鍛錬を積んだ例外的な者だけが仁徳を身につけるということなのだろう。私などはその境地には到底およばないが、多少なりとも努力はしたいと思う。(99年8月)
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