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明治維新の失敗は、非民主的な欽定憲法と国家神道であると前回書いたが、最新刊のPHP文庫版「伊藤博文」を読んだところおもしろい発見をした。
大隈重信や福沢諭吉の民主的憲法案を強引な手段で排除し、自らプロイセンに渡り、ビスマルクと会い、これに私淑して、あのような欽定憲法を作った張本人は伊藤博文である。
日清戦争直前、内閣総理大臣伊藤博文は、交戦せず外交だけで何とかしたいと考えたが、外務大臣陸奥宗光が一戦交えた後でないと外交が有利にならないと言い、やむを得ず、伊藤博文が出兵の決断を下し、明治天皇の裁可を得た。ところが、「人事と出兵の兵数は軍部の言いなりであった。内閣総理大臣には統帥権ないのである。それは伊藤博文がつくった憲法で、軍隊の統帥権は天皇になっていた。」「また憲法が邪魔するのか。伊藤は歯噛みして悔しがったが、どうにもならない。彼は二千人くらいの派兵でよかろうと想定していたが、軍部は初期段階で八千人、最終的には24万人出動させることになった。」
日清戦争に勝ち、日露戦争にも勝ちはしたが、明治の元勲達ならまだかろうじてできた軍部の抑制は、もはや誰にも不可能となり、ひたすら軍備拡張路線に突っ走り、外交のへまとあいまって悲惨な敗戦へとつながった。
制度というものは、それ自体のなかに抑制力が機能する制度にしておかないと、つくった本人がどれほど立派な意図で作っても、その意図を離れて、暴走し出すものであることを肝に銘じるべきである。
2004年2月記
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