2013年(平成25年)2月11日、東日本大震災からもうすぐ2年目という時に、本郷の加賀前田藩赤門前から西麻布4丁目へ事務所を移転した。
西麻布というと、大使館が並ぶおしゃれな現代的な街というイメージが強いが、実際にはその歴史は古い。事務所のすぐ裏には「牛坂」が今もあり、暗渠化されたが、笄川(コウガイガワ)が地下を青山から広尾方面へ流れており、今はないが、笄橋があった場所である。かつて麻布笄町と言われ、今でも笄小学校や笄公園などに笄町の名残が残っている。
笄とは、くしやかんざしのようなもので昔は男も女も使った。武士は刀の柄に飾りとしても挿した。箪笥町のように笄職人の町だったのかと思ったが、ここの由来は違った。
平安中期、源氏の初代、源経基が、938年に武蔵国の介(警察長官)として赴任し、埼玉県の狭山あたりで平将門と戦って負け、武蔵の国府(府中市)から京へ逃げ帰るため、麻布を経由して江戸湾や旧東海道にぬけるには、牛坂を通らざるを得なかったようだ。牛坂を下った橋のたもとに将門の関所があり、関守に、自分も将門の味方で軍勢を集めるため相模国へ行くのだと偽り(まるで子孫の義経の安宅の関と似ている)。関守に証拠の品を置いていけと言われ、刀に挿していた笄を与えて無事通ったことから、笄橋、笄川、笄町の名が生まれたと言われている。
(牛坂)
(笄橋があった所)
(笄公園)
この橋を渡って対岸の六本木ヒルズの脇を東進すると、源経基が、民家に泊まったという一本松坂に出る。今でも何代目かの貧弱な一本松がある(下の写真)。左に暗闇坂、その左がたぬき坂、直進は大黒坂。1597(慶長2年)に、ここに大黒天が造られたので大黒坂となったが、それ以前は、大黒坂も一本松坂である。
麻布十番から古川の一之橋、赤羽橋を経れば、江戸湾や旧東海道につながっている。反対に、牛坂を上った先は青山、代々木につながっている。麻布を東西に縦貫する古道は、当時の重要な道路だったのであろう。それが都心にもかかわらず、現代の幹線道路とは何の係わりもなく、いにしえの面影を残して狭い路のまま残っているところが面白い。
(一本松坂)
(暗闇坂)
ちなみに、麻布十番は江戸時代に生まれた地名である。延宝3年(1675)、麻布山近辺に大名の屋敷や寺社仏閣を建造する物資輸送の手段として、徳川幕府は、大黒坂への起点、古川の一之橋から赤羽橋、芝公園を経て浜崎橋の江戸湾河口までの下流1.6kmを荷船が通れるよう運河に整備した。この時の工事は河口から10工区に分けて行われ、最後の船着場の作られた十番目の工区が、麻布十番という地名として残った。
古川の上流の渋谷宮益橋から広尾の天現寺橋までの2.6kmを渋谷川と呼び、天現寺橋から江戸湾までの4.4kmを古川と呼んでいる。麻布十番より上流の天現寺橋までの古川に一之橋から五之橋までの連番の橋が架かっている。
古川は麻布山の南側を流れており、麻布の西側を流れる笄川(暗渠)と広尾の天現寺橋で合流している。今は見る影もないが江戸時代の古川は景勝地で、広重の「名所江戸百景」の一つ「広尾ふる川」として描かれている。この景勝を首都高速道路(一之橋ジャンクション)の高架で覆い、コンクリートのお化けに変身させた現代人の美的感覚はおぞましいとしか言いようがない。
(名所江戸百景広尾ふる川)
広重江戸風景版画大聚成(小学館)
(現在の天現寺橋付近)
(現在の麻布十番・一之橋)
左暗渠の笄川と手前の渋谷川が合流、古川となって右の麻布十番方向へ
麻布の大昔は、麻を栽培していたから麻布の地名となったと言われている。江戸時代に幕府の計画によって麻布山に大名の屋敷や寺社が大規模に作られ、町人も多く住む町となった。昔からあった一本松坂にちなんでいろいろな坂の名をつけたのだろう。
大名の下屋敷の前の坂には大名の名がつけられ、南部坂、木下坂、仙台坂、堀田坂、北条坂と今でも呼ばれている。それ以外にも、暗闇坂(会津藩邸、現オーストリア大使館)、たぬき坂、芋洗い坂等、いかにも江戸時代らしい名前がつけられ今もそう呼ばれている。
坂にそれぞれ個性的な名がついているというのは、当時の生活のにおいがして、それだけでもユーモラスで親しみがもてる。
これらの大規模な藩邸跡地が今は、有栖川公園(南部藩邸)となったり、大使館となったり、高級住宅街となったりしている。
六本木は、昔は、麻布の一部と考えられており、六本木交差点付近に東海道からみて、六本の木が見えたので麻布六本木と言われたのであろう。江戸時代は龍土六本木と呼ばれていた。龍土町は、元は、愛宕下西久保にあったが、元和年間に麻布六本木に代地を与えられ村ごと引っ越して龍土六本木となったと言われている。
(旧南部藩邸、現有栖川公園)
(たぬき坂)
池波正太郎の「剣客商売」([14]暗殺者、「浪人・波川周蔵」)を読むと、66歳の秋山小兵衛が、鐘ヶ淵や向島から、仙台坂まで剣友の見舞いに何度も来ている。江戸時代の人にはこの程度は何でもなったのであろう。
風野真知雄の「麻布暗闇坂殺人事件」や「麻布わけあり酒場」[1]〜[9]などを読むと、江戸時代の坂の町・麻布の生活や風景がよくわかる。
私は本郷に47年も居たが、六本木の飲み屋はともかく、麻布の住宅街へ人を訪ねたことは一度もなかった。それが昨年夏、たまたま物件の広告を見て、麻布も悪くないなと思い衝動的に移転を決めてしまった。この歳になって、そんな見ず知らずの土地へ引っ越して大丈夫かと心配されたが、来てみると、全く違和感がない。半年で街になじんでしまった。それは、新しい街並みの中に所々に見え隠れする古い歴史に慰められるからであろう。外国人が多く住み、ファッションの最先端の街でありながら、どこかほっとする日本の原風景がちりばめられている、なんとも居心地のよい街である。
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