山田法律事務所
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2014年 笄川の源流を散歩する
 


 私の事務所は西麻布4丁目の旧笄(コウガイ)町にある。
 すぐ裏に、「牛坂」がある。平安中期、源経基が、京へ逃げ帰る際、牛坂を下った橋のたもとの平将門の関所を通るため、将門の味方と偽って、関守に笄を渡して通ったことから、笄橋、笄川、笄町の名が生まれたと言われている。

(昔の牛坂、笄川・笄橋)昔の牛坂、笄川・笄橋

(現在の牛坂)現在の牛坂

  笄川は、外苑前の梅窓院辺りが最も遠い源流で、そこから南の青山墓地周辺の大小の小川が西麻布交差点付近で合流し、広尾天現寺橋で渋谷川と合流するまでの全長約3kmの小さな川である。その先、麻布十番、一之橋、赤羽橋、金杉橋を経て江戸湾まで4.4kmは古川である。笄川は今は暗渠となっているが、昔の川の跡の細道を上流へたどっていくと、都心とも思えない古い家並みや小川のせせらぎがあったであろう面影が残っている。
  西麻布交差点脇から笄川の上流をたどると、わずか5〜6分で、根津美術館中庭の下にたどりつく。この根津美術館の中庭の池や川も笄川の上流である。

(根津美術館下)根津美術館下

(根津美術館中庭)根津美術館中庭

根津嘉一郎と根津美術館
 万延元年、根津嘉一郎は、山梨県の油屋(菜種油販売や質屋)の2男(栄二郎)として生まれた。子供の頃から負けず嫌いであったが人の面倒見もよかった。長男(一秀)が病弱だったので29歳で家督を継がされ嘉一郎と名乗った。山梨県内の地所を買い進め、長者番付2位になる。31歳で山梨県議、村長となる。この頃から日本郵船等「乗りもの」や「明かり」の東京電灯(後の東京電力)等の株を買いあさり、
 明治28年、日清戦争後の株高(株価指数200から600に高騰)で大儲けし、資産評価額は90万円にも達した(当時設立された住友銀行の資本金が100万円)。兄の一秀はそろそろ手放せと言ったが信用買いを続け、半年後の暴落(元の200)で借金地獄となった。兄に山梨県の家督を返し、兄が買っていた東京の田畑3万坪、土地4500坪や建物30棟などをもらい、これらを担保に借金してしのいだが、利息の支払いに血尿が出るほどの苦労をした。日清戦争での株式相場の失敗を教訓とし、虚業から実業の道へと進む。
明治34年には東京電灯の常務となり、経営危機を救い借金地獄も脱し、麻布元町に5000坪の敷地を買い自宅を建てた。
明治37年、衆議院議員当選
明治38年、経営危機でボロ株だった東武鉄道株を買い、社長となり見事経営を立て直した。その後、東京鉄道、アサヒビール、日清製粉、南海電鉄、富国生命など多くの経営危機企業の株を買い立て直した。関係した鉄道会社だけでも24社に及んだ。三井、三菱、安田等財閥系ではない独自の実業家であった。会社発展の基準として、
 @経営者の資質、A時代の要求に合致した事業か、B最新の技術を有するか
を常にチェックした。これは現代にも通じる先見の明である。
経営不振のボロ株を買い、自ら経営して会社を立て直し、実業と株高の両面で資産を増やした。これは虚業ではなく実業であり、結果としての株高は一石二鳥である。
明治39年、日ロ戦争後の株急騰(12倍の1200で成金続出)とインフレで、持ち株は巨額になったが、成金達と同じ行動はせず、半年後の明治40年の暴落・ガラ(3分の1の400に下落)で、成金達が奈落の底に落ち破産していくのを冷静にみていた。この頃、自ら出資して東京美術倶楽部を設立し、両国の料亭中村楼を5万円で買い取り、美術品の入札会場とした。名のある美術品は競売前にまず嘉一郎に買って欲しいと打診された。今でも根津美術館の裏口は青山骨董通りに面している。
明治39年、青山6丁目に1万4000坪の自宅土地を購入した。
「そこは豊富な水に恵まれ、ゆるやかな起伏に富み、背丈ほどの草が生い繁る原っぱだった。ひと眼で気に入った。」というから、後に、池波正太郎が描く、青山の盗人宿のあった場所と似た風景であったのだろう。
「社会から得た利益は社会に還元する」という信念の持ち主であった。
大正11年、375万円を寄付して、練馬区豊玉に2万5000坪の土地を買い、教育の第一人者達を集め、旧制武蔵高等学校(現在の武蔵中学校・高等学校)を創立した。
大正12年9月の関東大震災でも、自宅に1500人もの被災者を避難させ食料などを配った。
大正15年、貴族院議員
昭和15年、80歳で死亡
昭和16年、その自宅を根津美術館として、その庭と収集品を一般に公開。

鬼平犯科帳と笄川
 池波正太郎の鬼平犯科帳(5)「兇賊」には、さりげなく笄川の源流が描かれている。
 青山久保町(神宮外苑)の居酒屋「いせや」にひそむ、元盗賊の九平(60歳)は、兇悪な盗賊、網切りの甚五郎の手下の男が「いせや」で飲んでいるのを見つけ、その後をつける。男は通り向こうの梅窓院の脇道を南へぬけ、青山候の下屋敷の塀沿の小川に沿ってさびしい畑道をまっすぐ南へ行く。このあたりは土地の起伏が多い。雑木森の向こうに、日中なら大安寺の大屋根がのぞまれようという丘の上の百姓家に入った。これが甚五郎の盗人宿であった。九平はその百姓家に出入りする男の後をつけ、向島の料亭大村に入るのを見届け、結果として鬼平の命を助ける物語である。
この「梅窓院の南の青山候の塀沿いの小川」は笄川の源流である。
「大安寺の大屋根がのぞまれようという丘の上の百姓家」は現在の根津美術館の辺りであろうか。大安寺は笄川沿いにあり今は大屋根はないが、私の昼食後の散歩道でもある。
 ちなみに、鬼平犯科帳(13)「夜針の音松」に、麻布の笄橋が出てくるが、「兇賊」に出てくる小川が笄川の源流であることは、暗渠の笄川の上流散歩を趣味としている者にしか分からない。
 池波正太郎は、大正12年浅草生まれ、下町育ちだが、子供の頃の青山は、江戸時代とたいして変わらない風景だったのだろう。
 外苑から南青山にかけては、現在は、おしゃれなファッションの街であるが、笄川の源流をたどって歩くと、ふとしたところに、かつての江戸の郊外、畑や木立や段丘が広がっていたであろう青山の風景の面影が残っている。根津美術館下に今もある庚申塚とその先の細道などはその一つで、私の好きな散歩道でもある。

(西麻布から笄川跡をさかのぼる小道)庚申塔庚申塔

   
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