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2014年 麻布大観音
 

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 六本木通を西麻布交差点から渋谷方面に登っていくと青山と接する西麻布のはずれに広大な敷地の永平寺別院の長谷寺(ちょうこくじ)があり、その入口に、麻布大観音がある。
 この辺りは昔は「渋谷が原」と呼ばれており、ここに小さな観音堂があり、江戸時代以前から人々に親しまれていた。この観音は奈良の長谷観音、鎌倉の長谷観音と同じ木から彫られた日本三大観音と言われているが、焼失した今では確かめようがない。
 江戸開府の後、家康の幼馴染みの高僧に2万余坪の寺領が付与され、この観音堂を基に長谷寺が開かれた。正徳6年(1716)2丈6尺の大観音を建立。古仏は尊像の体内に納められた。
 昭和20年の空襲で大観音は焼失し、昭和52年、福岡県大川市の樹齢600年の樟の巨木から高さ3丈3尺(約10m)の十一面観音が彫られ現在に至っている。
 「南無観世音」と拝めば、たちどころに現世の苦難を解決してくれる観音は古来より日本人に人気があり、あちこちに巨大な観音像が立っている。
 観音像で異色のものは法隆寺の百済観音像(国宝)で飛鳥時代のものと言われている。その立ち姿は約2m、細身でS字カーブを描いておりスタイルのよい女性を彷彿とさせ、それ以外の観音像がふっくらしているのに比べると、いかにも異国風である。由来は不明で、木材からみると日本で制作された可能性もあるのに百済観音と呼ばれるようになった。日本人の感覚からはそう呼ぶのが自然だったからだろう。和辻哲郎をはじめ多くの文人がそのたぐいまれな優美さをたたえている。
 私も、百済観音のような細身・小ぶりな観音像が好みに合うが、麻布大観音は日本風なふっくらとした高さ10mの大観音で迫力がある。しかも原木から彫り出したままで、上塗りや金箔もない素朴さがよい。
 麻布観音を見に来る観光客はまずいないので、いつも閑散としている。観音の前に小さなベンチがあり、そこに座って瞑想するのにもってこいである。
 人間が生きて行くには困難や苦難はつきものである。予期せぬ病気・事故・経済的困窮・対人関係の困難・天変地変等、自己の力だけではどうにもならない苦難にさらされることはいくらでもある。これをのりこえるには神にたよるしかないと人類は智恵を持ち始めた当初から考えた。当初は太陽や月に祈ったが、智恵が発達してくると、倫理や哲学と結びつけた宗教となった。創始者は偶像は作るなと言ったが、偶像がなければ頼りないので人間は神仏の偶像作りに心血を注ぎこれに祈りを捧げた。
 飛鳥時代から江戸時代までの日本人は、神仏にたより、現世の苦難からの救済を祈り、来世の極楽往生を祈った。宗教が巨大になると一種の権力となり、信長のように神仏にたよらない人間は仏教を敵視し仏閣を焼き払った。家康はキリスト教禁止と封建的人民支配のため仏教を徹底的に利用した。江戸時代の日本は仏教が隅々まで行き渡り、儒教の倫理(仁義礼智信誠)とともに、世界でまれに見る犯罪の少ない安定した国家となった。明治維新の欧化主義、廃仏棄釈で江戸時代の伝統はゆらぎ、日本は無宗教の国と言われた新渡戸稲造は日本には武士道の倫理があると言わざるを得なかった。第二次大戦後の民主化や自然科学の発展で、もはや念仏による極楽往生を信じる人間はいなくなった。不安をつかさどる脳の働きが分析され、それを除去する化学物質まで発見されるようになり、神仏に依存する人は少なくなり伝統的宗教は廃れる一方である。宗教が廃れるにつれ、倫理も人情も廃れ、自己中心に功利を追求する人間が多くなった。
 人類は地球的規模で自然科学と先進テクノロジーの発展、経済成長に力を注いでいるが、人間の精神の深化発展の努力はほとんどしていない。2000年以上前の釈迦や孔子やキリストのころより後退している。自然科学の進歩や経済の成長は人間の苦難を増大させこそすれ、解決することはできない。
 あの巨大ビル群や微細ナノテクノロジーを作った人類は、自分を幸せにするための精神の深化発展の努力を怠ったため、自らのハイテクにより自らを苦しめ自滅してしまった。なんとも愚かしい生物だったと後世の生物からあきれられることになるだろう。
 社会生活を豊かにするには倫理や人情や仁(思いやり)があまねく行き渡る必要がある。人が苦難を乗り越えるには欲望を捨て克己により無(空)の境地に至る必要がある。
 神仏を尊び神仏に祈ることにより、かろうじてそれを実現していた人類は、いまや尊ぶべき対象も祈るべき対象ももたず、一人苦しみもがくばかりである。
 観音菩薩に祈り、観音菩薩に助けられていた昔の人々と、高度成長を謳歌しているつもりの我々と、どちらがより幸せでどちらがより高度であると言えるのか。
 仏教の経典にある「あらゆるものは空であり、空はあらゆるものである」という教えは神秘的な哲学の分野であったが、今や、科学的に立証されている。人間を含めあらゆる生物は死ねば炭素に戻り、その炭素は土や木や岩石や他の生物に変じるが、太陽とその惑星が死滅する50億年後には大爆発とともに全ては霧となって無(空)に帰する。しかしその霧はまた寄り集まって太陽のような星に生まれ変わり、その惑星の一つが50億年かけて地球と同じ環境となればそこに人類のような生物がまた生まれるであろう。銀河系の全質量は太陽の1兆2600億倍あり、直径が10万光年、太陽のような星は銀河系の中だけでも4000もあり、宇宙には銀河系のような星群は1000億もあると言われている。宇宙そのものも生まれたり消滅したりを繰り返している。50億年や100億年は一瞬であり、それに比べれば人間の一生など無と言ってもよい。まして、人間の悩み事など無に等しい。そんなものに悩み苦しむなど無意味なことである。
 これだけのことが分かったのだから、人はもはや悩みや苦しみから解き放たれたのかというとそうでもない。
 宇宙にも我々にはわからないことの方が多い。最新宇宙論では、原子でできていて目に見える星や銀河は宇宙の4%に過ぎず、残り96%は我々には見えず正体不明の暗黒物質や暗黒エネルギーであるらしい。我々の身近にあるが、音も光も抵抗もなく人間や地球を貫き通すのでその存在が分からなかっただけということらしい。ニュートリノと似てはいるが、それより正体不明なものらしい。異次元との間を行き来している可能性もある。
 古代エジプトをはじめ、人類が昔から信じて疑わなかった、死後も魂が宇宙のどこかで別の暮らしを始める。そこには極楽や地獄があるに違いない。人の祈りとか気とかいうものは人体とは別に存在し続けるはずだということも、正体不明の暗黒物質や暗黒エネルギーが身の回りに存在する以上、迷信とも言えなくなってきた。
 人間が解明しうる科学的知識には限度があり、知識だけでは悩みから解放されないのであれば、とりあえず、我々の魂や気は、極楽や地獄で生き続けるに違いないと考えて、自らの存在の小ささを自覚し、観音に頭を垂れ、慢心がないか、仁にもとることはないかを省み、瞑想に浸るには、この麻布観音はちょうどよい場所である。

   
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