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2014年 白金長者伝説
 


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 白金台の広大な国立自然教育園(約6万坪)の中に、「白金長者」の土塁の跡が現在も残っている。言い伝えによれば、白金長者館の主は、南朝の国司としてこの地を開墾した柳下上総介で、大量の白金(銀)を保有していたので白金村と呼ばれたとのことであるが、一説では、柳下氏は、南朝の雑式を勤めたが、南朝没落後の応永年間(1394年〜1427年)頃から郷士となって白金に住んだとも言われている。

「白金」の地名は永禄2年(1559年)の記録に初めて現われ、大田道灌のひ孫がこの地を治めていた。土塁の説明文には「土塁は4~500年前(1500~1600年)、白金長者によって築かれた」とあるが、1559年の記録に既に、「白金村」の地名が出ており、それより相当前に白金長者がいたはずで、この説明はおかしい。

疑問点
 鎌倉時代には、鎌倉幕府御家人の江戸氏が江戸を支配しており、南朝から柳下上総介が国司にというのはちょっと信じられない。国司なら「武蔵守」として府中の国司の館に入るはずで、「上総介」という上総国(千葉県)の介(警察長官)の名もおかしい。この当時の上総国の介は、上総介広常でその業績も記録に残っている。国司が白金村を開墾するというのもおかしい。雑色は、朝廷の下級職員の雑役係に過ぎず、江戸の未開地に来て、荒れ地を開墾して白金長者と呼ばれるほど大量の銀を保有したというのも腑に落ちない。
 この館跡は、江戸時代に一旦、増上寺の管理下に入ったが、その後、徳川光圀の兄にあたる高松藩松平頼重(12万石)の下屋敷となった。

 柳下氏は、江戸時代に白金村の名主となったというから、この館跡とは別の場所の白金村に名主の地所と屋敷を徳川家康からもらったのだろう。

西麻布牛坂(笄橋)に残る
白金長者の息子銀王丸の恋物語
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 西麻布(麻布笄橋)の「牛坂」にも、平安中期の源経基の伝説とともに白金長者伝説が残っている。江戸時代の物語によると、

白金に白金長者がおり青山に渋谷黄金長者がいた。
白金長者の長男は代々銀王丸で、黄金長者の長男は金王丸であった。ある銀王丸が15歳の時、目黒不動に参詣したところ、不動明王の彫刻のある笄を拾った。その帰りに、黄金長者の姫を見かけ一目惚れしてしまった。恋文を千通も書き姫と恋に落ち、白金と青山の中間の麻布笄橋のたもとで二人が逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が鬼となって襲いかかった。すると笄が不動明王となって鬼を追い払い二人を救った。銀王丸は白金長者の家督を弟に譲り、黄金長者の婿となり金王丸となった。

 今風に言えば、この笄橋は、金運と恋愛運と不動明王のパワースポットということになろうか。現在も南青山に、長者丸商店街、金王丸塚、渋谷長者塚などが現存する。

武蔵国の歴史 
 武蔵国の国名が定められたのは和銅6年(713)とされている。
 武蔵国は、現在の埼玉県全域と東京都全域と神奈川県の川崎や横浜までを含めたおそろしく広い国であり、その国府は現在の府中市に置かれていた。この当時は、現在の埼玉県地域や多摩丘陵地域がわずかに開けた地で、江戸地域は、板東太郎と呼ばれた利根川が、渡良瀬川、荒川と合流し、暴れ川となって江戸湾に流れ込む河口の大湿地帯で、葦やまこもが馬の背より高く生い茂る未開の地であった。
 奈良時代の日本全国の人口が700万人と推定される頃、これだけ広い武蔵国の人口はわずか13万人と言われているので、江戸にはわずかな人口しかいなかったのだろう。
 武蔵国は、奈良時代初め頃は、信濃国碓氷峠を経て熊谷・行田方面へ入る東山道の一国であった。古い東海道は、鎌倉を経て三浦半島の浦賀付近の走水から船で江戸湾を横断し、上総、下総、常陸へと行く道であり、未開の江戸はパスされていた。奈良時代の末に、相模原台地を経て多摩の国府(府中)へ至る経路ができ、武蔵国は東海道の一国となった。川崎→品川の海沿いルートが東海道となるのはもっと後である。
 大宝元年(701年)の大宝律令により、武蔵国の国司は引田祖父が任命され、武蔵守となった。国司は天皇の親族の貴族がなり徴税権があるので大きな権益であった。
 平安中期には平将門の乱などもあり、武蔵国には国司がいない時期もあった。
  平安末期、武士の台頭とともに、国司の権益は武士に奪われていく。源頼朝は、武士である守護、地頭の支配の確立を図った。

江戸の歴史
 平安末期の11世紀、秩父氏が入間川、荒川の下流へ進出し、秩父重継は、江戸の桜田(のちの江戸城)の高台に居館を構え、江戸の地名をとって江戸太郎を称した。その勢力は川越、隅田川下流域、江戸、多摩川下流の蒲田や古川沿いの飯倉、小石川沿いの小日向、渋谷川沿いの渋谷、善福寺川沿いの中野、阿佐谷、武蔵国府の政庁にもおよび、武蔵七党の武士団をも動かせた。重継の子である江戸重長は1180年に源頼朝が挙兵した時には、当初は平家方だったが、後に鎌倉幕府の御家人となった。鎌倉幕府が滅びると、江戸氏は南北朝の騒乱において初め新田義貞に従って南朝方につき、後に北朝に帰順して鎌倉公方に仕えるが、室町時代に没落した。
 江戸氏に替わって、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田道灌が、江戸氏の居館跡に江戸城を築いた。

白金長者とは何者か
 土塁はかなり大規模で、西に目黒川、北に渋谷川が流れ、谷、崖地に囲まれた典型的な武士の館の立地である。周囲を堀で囲い高さ2m位の土塁上に垣根をめぐらし、その中に門田を持ち、屋敷の周辺の農地を支配する平安末期の開拓武士の館であろうと推測される。
 白金は目黒に近く、目黒では馬牧が盛んで良馬を産しており、駒場、駒沢などの地名も多い。目黒付近は、武蔵七党の「菅刈荘」で、鎌倉幕府が成立すると、東国の武士達はその支配化に入り、目黒弥五郎という武士が、源頼朝に仕えたとある。
  この館が平安末期(1100年頃)の開拓武士の館とすれば、南朝没落(1400年頃)の柳下氏より300年も前から館の主がいたはずである。しかし名も記録されていない武士が大量の銀を保有していたとも思えない。
 平安時代の奥州平泉の金は砂金であるから銀はない。石見銀山や佐渡金山(銀もとれた)など鉱山が盛んに開発されるのは戦国時代以降であるし、日本最古の銀山は対馬銀山であり朝廷に銀を収めていたが、江戸の辺鄙な地と関係があるはずがない。
 近くの品川の津(港)は、鎌倉幕府の御家人大井氏・品河氏によって開発が進められ、南北朝時代には伊勢をはじめ各地から商船が入港してにぎわったとあるが、館の主が、貿易商人として銀を蓄えたとも思えない。
 柳下氏が南朝崩壊時に大量の銀を持ち出し江戸まで運んだというのも可能性は薄い。
 土倉(どそう)は、鎌倉・室町時代の金融業者であり、物品を質草にとり金銭を高利で貸与した。京都ではこの土倉(酒屋を兼ねる)が300以上軒を並べ長者として栄華を極めていたから、南朝の下級役人の柳下氏が、江戸の地に住み着くと同時に、この館の主の倉を借り、増上寺などの寺社から資金を集め土倉を営んだというのはどうか。南朝関係者の信用力を利用したというのはあり得るが、役人が汗水垂らして未開地を開発して銀を貯めたとは考えにくい。柳下氏は土倉を営み、莫大な利益を銀に替えたのではないか。室町時代に、江戸氏と共にこの館の主の武士も没落し、柳下氏が館を土倉で蓄えた銀(白金)で買い取ったのではないか。それが1400年頃であれば、1559年の記録に「白金」の地名が現われてもおかしくない。
  来歴は不明であるが、白金村の命名は、後世に多大な財産を残したと言える。
 現在も白金長者屋敷の脇は、白金プラチナ通りとして人気を集めている。江戸時代には徳川家康が目をつけ松平の下屋敷とし、明治後は皇室の御料地となった。戦後は広大な国立自然教育園となり、武蔵野の雑木林を再現する貴重な場所となり、都心のオアシスとなっている。
  白金(銀)は残らないが、村名は残った。
 長者は残らないが、広大な屋敷跡が都心の貴重な大自然として残った。
「白金」の名がなければこうはならなかったであろう。
 名は銀より尊しである。

   
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