山田法律事務所
事務所案内
法律相談事例集
随筆
お問い合わせ・感想等
トップページ
随筆

その他
   
2016年 乃木坂歴史散歩
 


写真 写真
(乃木坂最後の急勾配) (乃木と妻静子自決の2刀)

 乃木坂は、今でこそ、六本木ミッドタウンに接する都心の一等地であるが、昔は淋しいところで「幽霊坂」と呼ばれていた。
 天正18年、秀吉により、江戸へ転封された家康は、江戸町奉行に任じた青山忠成に、この荒野を老馬で駆け巡り、馬の膝が折れた所までを与えると言ったところ、この幽霊坂で老馬は膝を折り事切れた。馬が巡った10万坪が青山屋敷地として与えられ、この坂は「膝折坂」と呼ばれた。幽霊に足を引っ張られ、老馬はあの世へ行ったとも言える。青山屋敷はその後8万坪に減じられたが、明治になり、東京市に寄付され青山墓地となった。幽霊坂は青山墓地へとつながった。因縁を思わざるを得ない。
 江戸絵図によれば、この坂の片側に今井谷という谷がある。昔は幽霊が出ると思われるほど恐ろしげなところであったのであろう。

乃木坂への改名の由来
 この幽霊坂に、明治時代、長州出身、大日本帝国陸軍大将乃木希典が住んだ。
 乃木は、日清戦争では、1万数千の寡兵をもって旅順要塞を1日で陥落させた。日露戦争では、半年の歳月と6万もの犠牲の上にようやく旅順を落とした。日本海海戦での勝利の元を作ったが、この戦争で息子二人を戦死させ跡継ぎは途絶えた。凱旋後も将兵を多数死なせたことを恥じ、戦勝を奢ることはなかった。
 戦後はここで質素に暮らし、戦死した兵の遺族の慰問と困窮救助に明け暮れた。
 明治45年、明治天皇崩御に殉じ自決した。死なせた兵や息子らの下へ行きたかったのであろう。妻静子に遺言を残したが、妻は夫と共に逝く決意固く、共に自決した。養子はむかえず、資産はこの邸宅を含め全てを寄付した。
 寄付された邸宅跡に乃木神社が建てられ、大正元年、幽霊坂を「乃木坂」と改名することを、赤坂区議会が議決した。かくて幽霊坂は乃木坂となった。
 しかし乃木は、幽霊坂に住んだ者ならではと言うべき苦難の道を歩んだ。

旅順攻略の苦難
 明治37年2月、日露開戦、海軍は旅順港閉塞を試みたが失敗。バルチック艦隊が12月には日本近海に到着することが予想された。それまでに旅順を落とさねばならない。旅順がロシアの母港となれば、制海権が奪われ日本は敗北の危機に陥る。この戦争に敗れれば、近代国家に歩み出したばかりの日本は、ロシアの属国、列強諸国の餌食となるは必定であった。旅順攻略がこの戦争勝敗の要であった。
 その年の5月、乃木は、明治天皇の意向により、旅順攻略が任務の第3軍5万の司令官に任命された。
  当時のロシアは英国と覇権を争い、陸軍は世界一、海軍も英仏に次ぐ超大国であった。日本はまだ、不平等条約対象の2等国と見られていた。
 旅順は、ロシアが築いた難攻不落の近代的要塞。ベトンの厚さは1.3m。日本軍の15p砲では打ち砕けない。ここに4万7000の最強の守備兵、500門の火砲、多数の機関銃で鉄壁の守りを固め、どのように攻撃されても3年はもつように設計されていた。
  城や要塞を攻めるには、最低でも城兵の3倍の兵力で包囲し、相手が干し上がるのを待つというのが鉄則であり、秀吉の備中高松城や鳥取城攻めを見ればわかる。正攻法は地下を掘り進み、城壁を下から爆破するのであるが、これには時間がかかり犠牲も伴う。
 軍中枢は、鉄壁旅順要塞の情報収集を怠り、日清戦争での旅順と大差なかろう、乃木なら今回も10日もあれば落とせると思っていた。乃木に与えられた兵力は守備兵と同じわずか5万、火砲は15p砲など200余門、弾薬も2日で尽きてしまうほどのものであった。
 しかも、海軍は、バルチック艦隊到着前に至急旅順を落とせ、203高地だけでも占領し、港内の軍艦を砲撃せよと言い、陸軍は、旅順を至急落とし、満州の主戦場に来い、後ろから挟み撃ちされないよう、旅順のロシア兵は壊滅させよと言う。
  これでは、乃木が窮地に陥るは必定、客観的にも勝てる条件は全くない。

乃木は愚将か名将か
 明治37年8月、旅順要塞の総攻撃が始まったが、惨憺たる結果に終わった。全滅・壊滅した師団・旅団は数知れず、兵は補充され延べ13万となったが6万もの犠牲を出した。
 12月1日、満州から総参謀長児玉源太郎がやって来た。18門の28p砲が203高地の至近距離に移動され、激戦の末203高地を占領。旅順港の軍艦を28p砲でことごとく爆破。
 更に1か月、主要要塞を総攻撃、1月1日、ついに望台を占領しロシア軍は降伏した。その死傷2万7000。
 司馬遼太郎は、小説「坂の上の雲」で言う。乃木は人は良いが愚将である。その参謀伊地知は無能・意固地で無策無謀な正面攻撃を3度も繰り返し、手薄だった203高地の攻撃いつまでもやらなかった。もっと早く203高地を攻撃していれば、犠牲は少なく勝てた。
 乃木名将論者は言う。主要要塞に相当なダメージを与えておいたからこそ、203高地攻撃が成功した。
  海戦史上空前絶後、1日でバルチック艦隊を全滅させ、日本は無傷という鮮やかな勝利を収めた東郷平八郎と参謀秋山真之に比べれば、乃木の戦法はいかにも愚直、山頂要塞の機関銃に向かって、いたずらに兵を突撃させ、兵を無駄死にさせたように見える。
  しかし、近代的要塞の実態を日本の軍首脳は誰も知らず、情報収集もしていなかった。当初の失敗を乃木の責任とするのは酷であろう。「203高地をもっと早く」も、終わった後の、「たら、れば」論に近い。
 普通、死傷率が5割にもなればその軍は壊滅とみなされ、士気は消沈する。乃木軍は、全滅しても、壊滅しても、士気はますます盛んであった。司令官が名将でなければ、こうはならない。
 乃木は、降伏した敵将を武士道の精神に則り丁重に扱った。軍刀を持ったステッセルと乃木の写真が世界中に発信されると、世界中の人々は、乃木の肝胆の大きさに驚嘆した。敗将は丸腰で勝者の前にひざまずくのが当然と思っていたからである。日本人の気高い精神のあり方が世界中に感銘を与えた。新渡戸稲造は、明治33年、アメリカで英文の「武士道」を刊行し、大統領ルーズベルトはこれを読んで感動したが、乃木によりその実際の姿を見た。ルーズベルトは日ロ講和調停の労を取ってくれた。日本はもはや武器弾薬も尽き、戦争を継続する経済力はなかったのである。

静子の誓い
 乃木が旅順で悪戦苦闘しているとき、いつまでも旅順を落とせない乃木を非難する声が傲然と上がった。軍内部でも乃木更迭の声が出たが、明治天皇はこれを拒絶した。幽霊坂の乃木邸を守る静子婦人にも、「乃木を早く切腹させよ。家族は何をぐずぐずしているか。」心ない罵声が浴びせられた。
 静子は、居ても立ってもおられず、神に誓った。
「私たち夫婦のみならず最愛の2子の命を差し上げますから、どうか旅順を落とさせて下さい。」
 母として、これほどつらい誓いはない。静子とて、わが子らに「君死にたもうことなかれ。」との思いがなかろうはずもない。
 静子はその誓いを守り、女性でありながら、刀で自決した。
 乃木と静子は、青山墓地に埋葬された。幽霊坂から青山墓地へ。
 幽霊坂から青山斎場までの葬列を見送ろうとして、沿道付近におよそ20万人もの人々が集まったという。老若男女、身分階層を問わず、これほど多くの人々が、誰から強制されたわけでもなく、万感の思いを込めて沿道を埋め尽くした。
 乃木の棺に続いて、静子の棺が運ばれたとき、誰一人号泣しないものはなかった。
「ああ、あなたは武人の妻の鑑、われらの恩人、何も知らず、われらはあなた方を侮辱した。どれほど謝っても、謝り切れるものではない・・・。」
 明治の人々は、万感の思いを込め、乃木と静子を見送った。
 乃木坂は、歩いて10分の散歩道。
 歴史の名勝は、ひっそりとある。

   
目次へ戻る


Copyright (C) 2000-2021 Hiroyoshi Yamada All Rights Reserved.