山田法律事務所
事務所案内
法律相談事例集
随筆
お問い合わせ・感想等
トップページ
随筆

その他
   
2016年 強運東郷平八郎と東郷坂歴史散歩
 


  東郷平八郎は強運の持ち主である。市ヶ谷駅から靖国通りを九段に向かい2個目の信号を右折して坂を登ると旧東郷邸跡が東郷公園となっておりその右脇が東郷坂である。原宿の東郷神社はよく知られているが、東郷坂を知る人は少ない。東郷も乃木も謙虚で泰然としており似ているが、東郷は運が良く、乃木は運が悪い。勝負運が良くなりたい人は東郷坂を登ってみるとよいかも知れない(写真)。


東郷坂

 明治28年4月17日、日清戦争後の講和条約が下関の春帆楼でまとまった。
@清国は朝鮮の完全な独立を認める。A台湾、澎湖諸島、遼東半島の割譲。B2億両の賠償金。ところが、露独仏の3国は、「極東平和の障害になる」との理由で、遼東半島を清国に返還させた。実際にはその後ロシアが遼東半島と旅順港を清国から強奪し満州と朝鮮への侵略を着々と進めたので、「極東平和」などは嘘っぱちもいいところである。当時の日本を含めた列強諸国の植民地強奪合戦とはこのようなものであった。日本は、臥薪嘗胆の増税と賠償金で海軍大増強を行い来るべき日ロ戦争へ備えた。この時の海軍改革の天才が山本権兵衛(明治31年46歳で海軍大臣となる)であった。
 東郷は日清戦争中、大佐として巡洋艦浪速(3650t)の艦長をしていたが、清国兵1100人を乗せた英国輸送船「高陞号」を発見し英国人船長に停船と随行を命じ船長は同意したが、清国将校が船長を脅迫してこれに従わなかった。やむを得ず撃沈し、船長等は救命した。ところが英国船を日本が撃沈したことで、英国で日本非難の声が傲然と上がった。当時の日本は英国を敵に回すことなど到底出来なかったから総理大臣伊藤博文は青ざめ、日清開戦という大事な時に何という外交問題を起こしてくれたと激高し、東郷は腹を切る覚悟をした。ところが英国の著名な公法学者2名が、万国公法上、東郷のとった措置は全く正しいという論文をロンドンタイムズに載せ、英国民の反日感情はあっという間に消え、反対に「キャプテン東郷の見識と勇気」をたたえる声が高まった。日本は外交上の危機を脱し、東郷への非難は称賛に変わったのである。
 明治36年10月27日、山本海相は、「東郷は運の強い男だから」という理由で、ロシアと戦うための連合艦隊司令長官に指名した。東郷は作戦参謀に俊才秋山真之を選んだ。日ロ開戦4か月前である。明治35年英国竣工の最新鋭戦艦三笠(写真、15,140t、18ノット時速33q、30p砲4門、15p砲14門、乗員860)を旗艦とし、戦艦4、巡洋艦2の第1戦隊以下7戦隊で、日英同盟の結果、良質石炭が入手でき、英国は建造中の2戦艦をロシアに売らず、イタリアで建造中の2巡洋艦(春日、日進)を日本が入手できるよう便宜を図ってくれた。東郷は出発点から運がよかった。


横須賀港の戦艦三笠
(主砲の後ろの司令塔とその上の艦橋)


15p副砲

 しかし日ロ開戦に当たり、山本海相は大失敗をした。海軍の面目にこだわり、「旅順は軍港だから海軍だけでやりたい。」と言い、4月6日の陸海軍作戦協定の際も「陸軍が遼東半島に上陸しても旅順要塞の攻撃は海軍は求めない」とまで言い、「本当に大丈夫か。陸軍としては、海軍の要請が途中で変わっても準備が間に合わなくなるぞ。」と言われても、「大丈夫。」と協定書に明記までしたことである。この山本のかたくなな陸軍排除があったから、陸軍も「陸軍には陸軍のやり方がある海軍は口出ししないでくれ。」と言うばかげたことにもなったのである。
 海軍は自前で6月末までに、旅順艦隊撃滅か旅順港口閉塞が十分出来ると思っていた。そして艦隊を修理整備して12月に来るであろう世界最強と言われたバルチック艦隊に備えようとしていた。ところが旅順艦隊は旅順港に逃げ込んで出て来ずどうにもならなくなった。有馬中佐・広瀬少佐等が老朽船を沈めて港口を閉塞する作戦を提案したが、秋山は兵を危険にさらし運に頼りすぎると反対した。しかし決死の覚悟の広瀬らに押し切られ、2月14日、3月27日、3月29日と3回の閉塞作戦を行ったが、旅順要塞からの照射と猛射の前に広瀬等は戦死(後に軍神と崇められた)、閉塞作戦は失敗した。この突撃の失敗は乃木の旅順要塞への3回の突撃の失敗と同じ(死傷者数は数十と数万という差はあるが)であるのに、乃木の場合は無能更迭論が起こったが、東郷の場合は無能更迭論どころか、広瀬等の決死の壮挙が陸海軍の将兵や国民を感激させ士気高揚し、現代から見ても絶世の美男子である広瀬のロシア駐在時代の恋人、ロシア貴族の美しい令嬢アリアズナが広瀬の死を悼み喪に服したという美談まで世界に流れ、米英でも、「この勢いでは日本は勝つかも知れない。」と日本の戦時国債が売れるようになったというのであるからその違いに驚かざるを得ない。
 港口閉塞作戦失敗後の5月3日、ついに海軍は、前言をひるがえし、陸軍に旅順攻略を要請し、乃木の第3軍編成が発令されたのが5月29日、しかも海軍は、203高地だけでも占領して港内の軍艦を砲撃して欲しいと要請し、陸軍は、旅順の敵兵を壊滅させて満州の主戦場に来いと矛盾した要求をつきつけ、5万の兵が500門の火砲や機関銃で守る鉄壁の近代的要塞に、その情報もなく(火砲200門で1万5千の兵程度で日清戦争当時の旧式保塁と大差ないと誤認していた)、旧来の要塞攻撃の経験しかない参謀伊地知を「要塞攻略の専門家」としてつけられ、守備兵と同じわずか5万の兵と要塞外壁を打ち砕けない貧弱な15p砲など200門とわずかな弾薬しか与えられずに司令官に任命された乃木希典は、余りにも不運と言うしかない。
 最初に、山本海相が譲歩して、陸海軍が協力して綿密な計画を立て、海軍重砲や28p沿岸砲などを最初から持って行って、海陸同時に、旅順攻撃をやっていれば、犠牲少なくして短期で勝てたであろう。この山本の失敗と近代要塞への認識不足が当初の旅順攻撃の失敗と大犠牲の原因であり、乃木のみを愚将と言うのは正しい分析とは言えない。
 ロシアは、「主力艦隊を鉄壁の守りの旅順港に集結させ、東郷艦隊をここに釘付けにし、ウラジオ艦隊で日本の輸送船団を襲撃し、バルチック艦隊が来たら、これと合流して総数51万トンの艦隊で、26万トンしかない日本艦隊を撃滅する。」と目論んでいたのであるから、明治38年1月1日に乃木が困難を乗り越えて旅順要塞を落とさなければ、東郷艦隊は修理もできず、日本海にて、砲の発射速度や命中率を飛躍的に上げる猛特訓もできなかったのである。ロシアの旅順艦隊が維持されていて、旅順沖で挟み撃ちされる体勢で決戦を迎えていたなら危うかった。
 ついに5月27日、バルチック艦隊は対馬海峡を経て日本海へ来た。秋山の開戦の打電、「本日天気晴朗なれど波高し。」の天候も東郷の運のよさである。もし濃霧や荒天であればどれほど特訓しても視認による艦砲射撃は当たるものではない。午後2時5分、8千mまで肉薄して、東郷は艦隊を左に回頭させた。1万mで射撃開始もあり得るが、波の高いこの日にロシア艦隊の砲の命中度は低いと読んで肉薄の上、回頭を行ったのは東郷の勇気であり、敵の頭を押さえ風上に立つ秋山の丁の字戦法をとったのである。2時10分、距離6400m(これは当方の命中率が飛躍的に上がるが危険も高まるぎりぎりの距離)で射撃開始。旗艦三笠の試射弾からして敵旗艦スワロフに命中した。艦砲の命中率は通常3%であるが猛訓練で10%に上げたからロシアの3倍は命中する。発射速度(回数)も3倍に上げたので命中弾の差は10倍になる。丁の字戦法で風上に横一列に並んだ6艦が一斉に、敵旗艦を狙うのだから彼我の命中弾の差は50倍以上となる。三笠の被弾は約40発であるから、スワロフの被弾は2千発以上であった筈である。しかも日本の砲弾は、鋭敏に爆発する伊集院信管と下瀬火薬で、艦上で大火災を起こし、敵艦を浮いた墓場とした。
 砲撃開始後も東郷は、見通しのよい最上階の艦橋で指揮をとった(写真)。その下の司令塔は砲弾が貫通しない厚さ35p鉄板で装甲され、わずか10pほどの窓(写真)があるだけで、より安全なので、そこに入って欲しいと幕僚らは懇願したが、東郷は、「私はここでよい。」と露出艦橋に立ったままであった。しかし敵砲弾のかけらすら当たらなかった。


東郷がいた艦橋


その下の司令塔内部

 一方ロシアのロジェストウェンスキー長官は安全な司令塔で指揮していたが、2時24分、わずか10pの窓に三笠の4射目の砲弾が命中し、長官が負傷し指揮不能状態となった。6千m先の10pの穴に命中させるのは7千ヤード先のホールにホールインワンさせるようなものである。しかも穴も打ち手も動いている。東郷の強運や思うべしである。
  旗艦スワロフは舵機も故障し北へ回頭し始めた。東郷は操舵不能による方向転換を北へ逃げるための進路変更と誤認し、直ちに艦隊を90度左に回頭させた。ロシア艦隊の後続艦はスワロフの舵機故障に気づき、そのまま直進したので、全艦が東郷の指揮通りにしていたら、危うく敵を逃がしてしまうところであった。ところが、第2戦隊旗艦出雲(上村艦長)の参謀佐藤鉄太郎中佐は、ウラジオ艦隊を何度も取り逃がした経験から上村艦長に、「スワロフは舵機故障でよろけはじめたに過ぎない、敵と反対方向に左旋回しては敵を逃してしまう。艦長、第2戦隊は右旋回して敵の頭を押さえ、この時機を逸せず猛撃しましょう。」と言った。佐藤中佐は「窮地では臨機応変に積極策に出よ。」との剣術奥義を身につけていた。上村が決断し、東郷の指揮を無視して、第2戦隊5隻の薄い装甲の巡洋艦隊は重装備の敵主力戦艦の頭を丁の字のように押さえるべく右方向に転換し猛撃を加えた。これにより一旦敵を見失った東郷主力艦隊は、かろうじて再び敵の前に現れ遁走を押さえることができた。この上村艦隊の臨機応変ががなければウラジオに逃げられたかも知れない。しかし本来、戦闘中に司令長官の指揮を無視すれば軍法会議にかけられ処刑されるほどの問題である。佐藤中佐や上村艦長は、自分が軍法会議で命を失うことなど屁とも思わず、国家の大事を優先したのである。このように東郷の失敗を補ってくれた勇猛な部下を持っていたことも東郷の強運である。
 日本海海戦は、最初の約30分でほぼ勝敗が決した。バルチック艦隊は、バルト海からアフリカ南端喜望峰をまわりはるばる3万3千q(地球1周は4万q)を7か月もかけてやって来て、たった30分で壊滅したのである。ご苦労さまでしたと言う外ない。夜の水雷艇による魚雷攻撃でとどめを刺され、翌朝の追撃で、完膚無きまでに消滅した。東郷の被害はなきに等しい。大規模な艦隊同士の決戦で戦力は先方が優位(30p砲は東郷16、ロシア26門。20p砲は東郷25、ロシア32門、15p砲200門はほぼ同数)なのに、これほどの一方的な大勝は海戦史上前例がない。スワロフの生き証人セメヨノフ中佐は、「前年8月10日の黄海海戦は互角に戦ったので海戦であったが、これは海戦というものではない。一方的屠殺であった。」と述べている。
  日本海海戦の勝因は、@東郷という逸材の将。A地の利ある日本海で戦えた。B偵察網で敵情を早期に知り得た。C伊集院信管と下瀬火薬砲弾の最先端技術。D英米が支援してくれたことのほか、E乃木が1月に旅順を落とし、艦船の修理と2月から5月までの兵の猛訓練(1年分の訓練弾を10日で使い切ったほど)により、砲弾の命中率と発射速度を飛躍的に上げ、8月の黄海海戦では同等であったものが5月には50倍の戦力差になった。これができたのは、乃木が困難な状況でわずか5か月に旅順を落してくれたからこそであり、Fバルチック艦隊が本来12月の予定が遅れて5月に来て、当日、天気晴朗で波高かったという天運に恵まれたことが最大の勝因である。
  東郷は、この大勝が天運に恵まれた辛勝に過ぎないことを痛いほど理解しており、「天は一勝に奢る者から直ちに栄冠を奪うだろう。」とのいましめの言葉を述べている。
 残念ながら、その後の日本人や日本海軍は東郷の勝因を分析せず、そのいましめを守らず、奢り、ミッドウェイの惨めな敗戦につながった。
 マスターズを創設した球聖ボビー・ジョーンズは、「勝った試合から得るものは少ない。敗れた試合からこそ教訓は得られるものだ。」と述べているが、戦争においては、勝因をも分析し教訓を得るべきである。勝因と失敗を分析すれば、戦争に勝つということがいかに危ういものか、失敗の犠牲がいかに大きいかがよく分かり、とても軽々しく戦争などするべきではないということがよくわかる。

   
目次へ戻る


Copyright (C) 2000-2021 Hiroyoshi Yamada All Rights Reserved.