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2019年 万葉歴史散歩
 


あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る   額田王

 「紫草が咲き乱れる野へ狩りに行くと、真昼間から、夫の弟君が、『愛してるよ。おいで、おいで。』と袖をふって誘って来る。野の番人に見られやしないかとひやひやしたわ。」というような意味であり、その返歌は、

むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに われ恋ひめやも   大海人皇子

 「匂い立つように美しく魅惑的なあなたが、人妻だからといって、惚れずにいられるものか。」
 紫野は、紫草から紫色の染料をとる天皇直轄の栽培地の蒲生野のことであり、ここへ夫である天智天皇主催の遊狩に出かけ、その後の宮中の宴席でこの歌を披露したのである。 天皇である夫の前でのあまりにもあからさまな不倫公表と開き直りの歌である。この時、大海人は40歳位、額田王は35歳位で、相当の年配なので、これは宴席を盛り上げるための座興のたわむれの歌とする説も多い(井上靖「額田王」等)。しかし夫の面前で座興のたわむれで済む内容だろうか。また座興の冗談に過ぎない歌が万葉集の冒頭部分を飾る名歌として採用されるだろうか。
 天智天皇は、645年20歳の時、蘇我入鹿を宮中大極殿で斬殺、その父蘇我蝦夷も蘇我系の古人皇子も殺して大化の改新を行い、658年有馬皇子も殺し、663年百済救済のため3万の大軍を派遣したが白村江の戦いで大敗し、667年逃げるように近江大津へ遷都した。
 その遷都の翌年5月5日の歌であり、まだ戦争の高ぶりもさめやらぬ時期である。天智の怒りに触れれば殺されかねないのに、何故このような歌を大海人や額田王が歌えたのだろうか。

不倫とは何か

 西洋キリスト教の一夫一婦制の下では、結婚している人が、別の相手と情交することは不倫である。性そのものも暗い邪悪なイメージであり、イエスキリストは処女である聖母マリアから生まれたとされている。
 古代中国の儒教の下では、君主や力ある男が複数の妻を持つことは当然で、夫が別の妻と情交するのは不倫ではないが、妻が別の男と交わるのは不倫であり、男中心主義である。
 古代日本ではどうか。邪馬台国女王卑弥呼は238年、魏に朝貢し、皇帝から「親魏倭王」の称号を受けた。魏の答礼使の報告を記録した「魏志倭人伝」には、邪馬台国の不明な位置(地図や磁石などないのだから方向音痴はやむを得ない)とともに、「倭では身分の高い男は皆5~6人の、身分の低い男でも2~3人の妻を持っている。その風俗は淫らではない。女は慎み深く嫉妬しない。」と書かれている。魏使は自国の先入観から、男しか複数の妻を持つ筈がないと思ったようであるが、男が皆複数の妻を持つならば、女もまた複数の夫を持たなければつじつまが合わない。
  宣教師ルイスフロイスは、「驚いたことに、日本では、婦人も又、複数の夫を持っている。」と本国に書き送っている。
 古代の日本では、母系家族制であり、母親の下で暮らす女の下へ男(夫)が通って来るが、女は気に入れば、別の通い男(夫)も受け容れた。厳然たる母親に見守られており、風俗は淫らではなく、女は慎み深く、男も女も互いに嫉妬しなかったのであろう。そうであれば、男にも女にも不倫は成立しない。
 江戸時代、家康の儒教奨励により、しかめっ面の男尊女卑の風潮となった。江戸時代であれば、この場面は、姦通の罪として、夫はその場で妻も弟も切り捨てるべきとされ、明治以降戦前まで通用していた旧刑法では、妻のみが姦通罪として6ヶ月以上2年以下の重禁錮に処せられた。
 不倫の意味も時代と場所により変遷するのである。

白村江の戦い

 660年、新羅は百済と高句麗から攻められ、唐に援軍を求め、唐は13万の兵で百済を攻め、国王や太子、大臣等をことごとく捕えて唐に送り、百済国崩壊。
 661年、百済の残存将の福信が、日本に支援と百済王子豊璋の返還を要請。
 663年、中大兄皇子は、13万の唐兵と戦うため、国運をかけ累計3万2000人の大軍派遣を決断。母親斉明天皇も神功皇后の外征にならい、筑紫(博多)へ移転。
 額田王は、斉明天皇に随行し、四国の熱田津に集合した船団の勇壮な船出の高揚感を、斉明天皇に代わって歌い、兵を鼓舞している。

熱田津に、船乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな   額田王

 総大将中大兄皇子も大満足した歌であった。
 663年8月27、28日の白村江の戦い、倭船1000艘、唐の大型船170艘との海戦で大敗した。我が方の戦法は兵船から矢を放ち、接舷して切り込む古来の戦法であるのに対し、唐船は数倍の大型船で接舷は困難、高い両舷の小窓から弩を連射でき、甲板から抛石器で火炎壷を遠くまで飛ばすことができた。我が方が勝つには、俊敏な小型船で、鈍重な大型船の背後に取り付き、掛け縄などを伝って切り込み、敵船上の大量の油壷に放火するという奇襲戦法しかないが、身分の高さで選ばれた将らを束ねる元帥はおらず、将らは派手な正攻法を好み、身分の低い者の提言など受け容れず、河口に整然と並んで待ち構える敵船にまともに正面攻撃を加え、一方的に全滅した。
 奈良時代の日本の全人口700万人、3万の派兵は現在の43万に相当する。それが全滅して、神功皇后以来300年築き上げた半島の拠点を全て失ったのはおそるべき失敗である。

白村江の敗因

@総司令官(中大兄皇子と中臣鎌足)の情勢判断、戦略判断の誤り。
A国力、経済力の差、派遣兵力の差。B敵状を知らず、地の利のなさ。C武器の技術の差。D将の人材の差。E同盟した相手(百済)のレベルの低さ。
これは1300年後の太平洋戦争の敗因と大部分同じであり、敗因の分析を国史に残さないのも同じである。

神功皇后の功績

 戦前までは、神風に乗って三韓征伐をした神功皇后は、実在の英雄とされたが、戦後は、神話盲信の反省から、非実在説が有力となっている。
 日本書紀の筆者は、神功皇后を卑弥呼ととらえようとしている(そうなると西暦200年代の人となる)が、これは無理がある。その頃は国内平定途上で海外派兵は考えにくい。400年代の古墳400m級は世界有数であり、海外派兵の余力があってもおかしくない。
 高句麗の好太王(西暦391年〜407年)の碑に、「倭が半島に侵攻、百済や新羅を破り臣従させた。400年にまた倭が新羅城を占領したので5万の兵を派遣した。」等とあるところからみれば、神功皇后外征を360年頃のこととして、実在説をとるべきであろう。
 オキナガタラシヒメ(「神功皇后」は諡号)は、夫の仲哀が九州で熊襲征伐途中で急死したとき、「このような益なき戦いより、宝の島、新羅を攻めるべき。」との神託を受け、仲哀急死を隠し、仲哀の名で外征の詔を出した。
 嵐を神風ととらえ、対馬から200艘の兵船(12挺櫓と20挺櫓の帆船というから8000位の兵と推定される)を自ら引きいて出発。50qの海峡を飛ぶように新羅に着き、たちまち新羅城を占領。勝利に沸き立つ兵に、「暴力で婦女を犯してはならぬ。自ら降服した敵兵を殺してはならぬ。」と命じ、新羅王の誇りを傷つけず統治の継続を許し、調を納めることと永遠の友好を誓わせて凱旋した。唐が百済を攻め、王族大臣のすべてを拘引し辱めたのに比べればその違いは歴然である。その後百済を支援し、半島南端の加羅を始め7国を任那を通して統治したが、百済、新羅、高句麗の三国の争いは続いた。
 この神功皇后の功徳がその後も続いていれば、秀吉の朝鮮征伐や韓国併合という粗野なやり方もなく、友好的関係が今日まで続いていたかも知れない。白村江での天智の敗北は、その後の日本に重大な影響を与えたと言えよう。

大海人皇子の先見の明

 日本で長年人質生活を送った百済王子豊璋は器が小さいので、兵の指揮をさせるのは百害あって一利なし、自分が総司令官元帥として半島へ行くと進言し、そう決定されたが直前に覆された。中大兄は弟が華々しい戦功をあげれば、自分の即位が危ういと判断したが、自ら行くこともしなかった(高齢の母親斉明天皇は筑紫で急死)。

近江への遷都を嘆く歌

 中大兄皇子は、勝ちに乗じた唐大軍の来襲に備え、太宰府に大規模水城建設、瀬戸内各地に防御の築城と、莫大な国費を投じた上、667年、近江大津へ遷都。唐軍来襲の場合、琵琶湖から東国や北陸に舟で逃れやすいと考え、近江で、天智天皇として即位した。しかし度重なる民の徴用に怨嗟の声高く、新宮殿の出火騒ぎ(鬼火)が絶えなかった。
 額田王は、天智の近江への遷都を嘆き、大和からの旅の途中で、神の宿る大和の三輪山と別れることの後ろ髪引かれる思いを歌っている。

三輪山を、しかも隠すか、雲だにも、心あらなも、隠さふべしや   額田王

 天智にとっては、額田王は愛しくはあるが思い通りにならぬ女でもあった。
 額田王は、もともと弟の大海人の恋妻(正式な妃ではなく、斉明天皇の神事をつかさどる立場を続けた)で、女児(十市皇女)を一人儲けていたが、あまりの美貌と歌のうまさに兄の中大兄(5~6人の妃を有していた)が惚れて、「おまえには私の娘4人も妃にしてやったのだから、額田王一人くらいは私にもらいたい。」と大海人の了解を得たが、正式な妃の一人にしたわけではなく、額田王自身は兄弟両方の恋妻であり続け、これは当時としては別段珍しいことではなかったのであろう。
 天智天皇は、自己の政敵を次々抹殺している。同じ斉明天皇を母とする弟大海人皇子を次の天皇候補とはしたものの、晩年には、身分の低い采女が生んだ我が子大友皇子に皇位を継がせたくなり、最後の病床に大海人を呼び出し、「そなたが皇位を継承するか。」と問い、「する。」と答えれば殺すつもりで兵を配置していたが、大海人は、「私は直ちに吉野へ出家し仏門に入りたい。皇后倭姫王が皇位を継承し大友皇子が補佐するのがよいと思う。」と答えたので、抹殺のチャンスを失った。
 二人の兄弟の関係は微妙であり、大海人は天智の感情を先読みし、うまく難を逃れている。このように微妙な空気を読むことにたけている大海人が、座興の冗談としても、天智の怒りに触れるおそれがあれば、このような歌を披露するはずがない。この歌により大海人が命を狙われた形跡もない。
 歌の名人、絶世の美女で神につかえる額田王が、大海人の恋妻でもあり続けるのはしょうがないと天智も認め、互いに嫉妬しない関係であったのでなければ、このような歌は危険すぎて歌えない。

壬申の乱

 近江遷都後、わずか5年で天智天皇は病没。翌672年、大友皇子が大海人皇子を打つべく挙兵。大海人は、間一髪で吉野から美濃の「不和の関」(関ヶ原)へ逃れ、美濃、尾張の兵を糾合し、大友皇子を滅ぼし、近江宮を廃し、大和の飛鳥に遷都して天武天皇となった。国史(日本書記)の編纂を命じ、生前に自らを天皇と称したのは天武が初めてで、それまでは大王(おおきみ)である。
 額田王は、壬申の乱後、大和の大海人のもとに戻りここで生涯を終えた。近江宮を去ることを嘆く歌はないので、飛鳥の大海人のもとで暮らす方がより幸せであったのであろう。大友皇子に嫁いでいた十市皇女も戻っている。
 廃墟となった近江宮跡を訪れた柿本人麻呂は、往時を偲び、

ささなみの 志賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ   柿本人麻呂

と歌っている。笹波の滋賀の唐崎は変わらずにあるが、大宮人が優雅に遊ぶ舟は、待てども現れることはないのだなあ。
 この近江宮は、昭和53年の発掘で、湖西線の西大津駅(現在は「大津京」駅と改名)近くに、東西150m、南北350mの大型掘立柱穴の遺構がみつかり、不明だった幻の宮殿の位置が確定した。歴史の文献が先にあり、発掘が後にされるというのは中国では当たり前のことであるが、日本でも日本書紀がこの頃書かれたのでその例となった。
 私は、2009年と2019年にこの地を訪れたが、琵琶湖の風そよぐ風光明媚なところであった。タクシーの運転手に、「柿本人麻呂が歌碑があるはずの船着き場へやって欲しい。ここがかつて日本の都であったことを知っていますか。」と聞くと、「全く知らない。」との返事で、人麻呂と同じ嘆きを感じざるを得なかった。


(近江宮の柱穴の遺構)


(志賀の唐崎の現在の風景)

漢字の伝来と日本人の傑出した応用力

 漢字の伝来は5世紀、百済国の王仁(わに)が、『論語』と『千字文』を初めて献上したことによるとされている。
 和歌は日本に文字がないころから口で歌われていた。日本書紀など叙事文は漢文で書かれたが、歌は日本語の音が大事であり、万葉集は漢字を表音文字として使った万葉仮名で書かれた。これでは読みづらいと、その後、かな交じり文に改められ、美しくやわらかな日本語らしい表現となった。微妙な情景を短く詩的に表現する和歌は日本独自の高度な文化であり、万葉集はその時代の人々の生活や感情を後世に伝える貴重な資料でもある。
 万葉集の冒頭部分を飾る額田王の歌は傑出しており、それを素直に読まないのは淋しいことでもある。

   
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