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2002年恐慌の予兆
 
「明けましておめでとうございます。 21世紀に入ってもまるで恐慌前夜のような世相ですね。20世紀の大恐慌への対応の誤りを教訓として、また愚かな歴史を繰り返さないようにしたいものですね。 2002年も皆様のご健勝をお祈り申し上げます。」

1、2002年から始まるかも知れない大恐慌の予兆

 1990年に始まる日本のバブル崩壊は、2001年の株価の記録的下落(日経平均1万円を切る)、大企業倒産(そごう、マイカル、青木建設)、大手電気会社をはじめとする大量リストラによる大失業時代を迎えており、回復の兆しが見えるどころか、大手ゼネコンの倒産予備軍は増えつつあり、デフレスパイラルに入りつつあります。 2002年4月から始まる銀行預金ペイオフ解禁を目前にして、銀行株は軒並み大幅下落しています。このままでは3月までの間に、閣僚の失言一つで取り付け騒ぎ・金融パニックが起きかねない状況です。そうなれば日経平均1万円の株価は更に大暴落し、ゼネコンその他倒産予備軍の大破綻が相次ぎ、失業者数百万人が町に溢れ、国債大暴落、財政破綻、アメリカ国債放出によりニューヨーク株価大暴落・・・世界大恐慌前夜の様相です。
 20世紀の大恐慌とその後の人間の愚かな歴史をもう一度振り返り、教訓としたいものです。

2、1929年の世界恐慌

 10月24日ニューヨーク株価大暴落(その後ピーク時の10%にまで至る)をきっかけとして、  [1]物価下降→[2]所得下降→[3]企業マインド縮小→[4]銀行クレジットクランチ(金融いきづまり)→[5]設備投資激減→[6]失業増加(アメリカ失業率25%)→[7]給与縮小→G物価再下降=景気縮小のデフレスパイラルとなりました。 日本では、大正バブル景気崩壊、1923関東大震災、震災手形、1927(昭和2年)の金融恐慌、為替不安定、財界の安定化要求、1930井上準之助金本位制復帰、大恐慌の道をたどりました。

3、大正バブルの原因と崩壊過程における失敗

 第一次大戦中の成金成長は、火事場泥棒的輸出市場によるものでした。日本の工業や金融は未熟で、終戦により日本経済が欧米に敗退したのは必然でした。  「1920年の戦後恐慌時に政府が思い切った引き締め政策をやり、大戦中雨後の竹の子のように噴出した不良企業をつぶれるだけつぶしてしまい、残った企業の徹底的な合理化をやっていたならば、その後の日本経済はもう少しましに発展していたかも知れない」(大内力「日本の歴史24」中公文庫)ということですが、実際には原敬内閣は、バブルにより税収が増え、財政が膨張したのを引き締めることができず、惰性で軍備拡張など積極財政続け、税収不足は公債発行、七十四銀行の破綻には日銀特別融資でとりつくろい(現在と余りにもよく似ていますね)、その場しのぎをしていましたが、結局、不良企業・銀行の整理が遅れ、日本経済の矛盾をより深めてしまいました。

4、1927(昭和2年)の金融恐慌

 震災手形の処理問題をめぐっての議会審議中、若槻内閣の片岡蔵相の失言「渡辺銀行破綻」の公言により、人々は銀行に殺到し、預金をおろそうとして取付騒ぎが起こりました。大企業の鈴木商店の破産と台湾銀行の破綻により混乱は頂点に達しましたが、高橋是清の迅速果敢な処置により、ようやく沈静化しました。しかし預金はビッグ5の銀行に集中し、財閥支配をもたらしました。田中義一長州閥陸軍出身無能内閣は左翼弾圧と中国侵略拡大しか能が無く(張作霖爆殺、陸軍無統制)日本の進路を根本的に誤りました。

5、大恐慌と高橋是清のケインズ先取り政策

 田中内閣の経済無定見により為替相場は乱高下しました。金本位制に移行しなければ外債発行も不可能となり、財界の意向もあり、1930年、浜口内閣の井上準之助蔵相は、デフレ政策をとり、前年の1929年10月の魔の木曜日に起因して世界大恐慌が始まっていたとも知らず(大恐慌とは、よほど先見の明のある人以外には、それが終わった後、歴史教科書にあれが大恐慌だったと書かれて、初めて分かるものです)、高橋是清の反対にもかかわらず、金輸出を解禁してしまいました。しかし。金輸出解禁は、もともと国際競争力のなかった日本企業を荒波の中へ放り出し、弱い企業は淘汰し、強い企業の国際競争力をつけるというのが目的(2002年4月からのペイオフ解禁も同じ目的)でしたが、なにしろ時期が悪かった。世界大恐慌の嵐に巻き込まれ、金のみ激しく流出し、輸出は不振を極め、生産は縮小し、企業倒産が続出し、失業地獄となりました(当時の統計で失業率6%というが、実際には300万人が失業し、職に就けたのは3人に1人だったとも言われています)。この状態が1934年まで続きました。1931年12月、犬養内閣は、たまらず高橋是清を蔵相に担ぎ出し、以後斉藤、岡田内閣と留任し、2・26事件で殺されるまで4年余にわたり恐慌対策の高橋財政を展開しました。ケインズが「一般理論」を発表する前に、世界ではじめてケインズ経済を実践しました、そのお陰で日本は、世界で最も早く恐慌から脱出しました(輸出面で、35年でも、対29年比、米43%、英58%、独32%、仏31%であったのに、日本は32年にすでに29年水準を越え、35年には70%も高い水準に伸ばした)。 高橋是清の政策は、対外的には、31年12月に、金輸出を再禁止し、意図的に低為替を放置しました。これは平価切下げによる輸出競争力増強を図ったもので、輸出促進(日本綿布輸出は英国を抜いて世界第一位となった)、対内的には、公債の日銀引受発行を考え出し、インフレ策による追加購買力(主に軍事費増加による重化学工業のてこ入れと救農土木事業)をてことした価格つり上げによる景気回復を図ったものでケインズ先取りの天才的手法でした。

6、日本のその後と高橋是清及び高橋財政の悲劇

[1]日本の意図的低為替、低労賃による輸出一人勝ちは、ソーシャルダンピング・経済侵略として、列強諸国から、脅威ととらえられました(今の中国に似てますね)。経済面でも、軍事面でも、日本は国際的孤立を深めていきました。この高橋の天才的政策の成功は、皮肉にも、国際経済のブロック化のきっかけを作り、満州事変とならんで、第二次世界大戦へのきっかけを作ったとも言えるのです。

[2]この財政膨張策(意図的インフレ政策)は、結果的には、軍部の軍事費拡大要求の堰をはずしてしまいました。高橋自身はその危険性を認識し、一人で押さえようとしましたが、自ら放った怪獣に襲われ殺されてしまったのです。

 その後の日本の悲劇は言うまでもありません。

7、失敗の原因

[1] 列強諸国の中で、後進の日本の位置を冷静に見つめることができず、国際的孤立を深めてしまった。 [2] 政治・経済・外交と軍事のバランスが大切なのに軍事力を異常に突出させてしまった。 [3] 国際的視野に欠け、政治・経済・外交視点も乏しく、戦略戦術の策定も情報管理もお粗末であった無能な軍官僚を誰も統御できなかった。 [4] 人間生活を豊かにするために、財政があり、政治・経済も全てがあるとの観点を持つ指導者もおらず、国民の大半も、お家大事と同じように国家大事、主人公たる人間の幸せは二の次との考えから脱却できなかった。

8、失敗の教訓

[1] 財政運営だけを天才的に行っても悲劇は回避できない。

[2] 軍備拡張に有効需要を偏らせるのは危険である。

[3] 国際的孤立の財政政策は危険である。

[4] 無能な軍官僚を誰も統御できないというのは最悪である。

[5] 結局、国際協調を図りつつ、人間生活を豊かにするような有効需要を喚起するしかない。

[6] 人間の幸せが財政の主目的であるとの自覚と実践が必要であり、それを促す教育が重要である。
   
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