(彦根城と井伊直弼)
(お堀の外の埋木舎)
私は石川県小松の出身であり、上京する際、北陸線で米原まで来て東海道新幹線に乗り換えるが、琵琶湖に浮かぶ彦根城の優美さにいつも見惚れていた。彦根城は今でこそ国宝であるが、明治の文明開化の中、解体される寸前であった。明治天皇が北陸巡幸の帰り、その優美さに保存を指示、間一髪で解体を免れた。彦根城は遠くから見ても美しいが、城内の庭園から見ても美しい(写真)。
関ヶ原の戦いで井伊直政は、家康の側近として縦横無尽の活躍をした効により、石田三成の佐和山城を見下ろす東海道と北陸道の分岐点要衝の地に、彦根藩32万石を付与され彦根城を築いた。
直政から10代目の井伊直弼は、14男でまさか藩主なれるとは思っておらず、32歳までお堀の外の埋木舎で埋もれ木のように暮らし、出自不明の浪人国学者長野主膳と交流したり、芸者の村山たか女と深い仲になったりと比較的自由な立場であったが、譜代大名の息子であり、老中の中では決断力ある開明派とハリスからは見られていたが、実際には先例重視の因循な性格であり、高杉晋作のような天真爛漫革命的な発想はできなかった。
大老就任と日米通商条約無勅許調印
1850年(嘉永3年)幸運にも藩主となり、嘉永6年黒船来航に際し開国を主張し、また将軍家定の後継として紀伊藩主徳川慶福(家茂13歳)を推し、攘夷派で自分の7男である一橋慶喜を推す水戸徳川斉昭と対立した。1858年(安政5年)大老に就任したが、大老は座る位置が上座になるだけで何の権限もない形式的地位であったが、将軍家定は一橋慶喜が後継者になることを嫌い、御三家と歩調をあわせ慶喜を推しそうな老中筆頭堀田正睦を罷免し、直弼を筆頭とした。
開国派であった堀田は、ペリー来航から5年、日米和親条約で下田に来たハリスから、日本に有利な日米通商条約を先ず結べば、他の列強もそれと同様で納得するが、先送りすれば、まもなく列強艦隊に脅されて、清国のように不利な条件で結ばされると説得されて、条約調印寸前まで来ていたが、斉昭ら御三家を説得するためには、天皇勅許をもらった方がよいと思い、これまで条約調印に勅許などもらったことがないのに自分が京へ行けば簡単にもらえると思い上京したが、水戸や薩摩ら尊皇攘夷派の働きかけにより、孝明天皇は、「開国反対、一橋慶喜を推す。」との内勅を出した。
これを聞いた直弼は、条約調印担当の岩瀬忠震に、「やむを得ない場合は致し方ないが、なるべく引き延ばせ。」と命じ、岩瀬は、列強の軍艦が続々迫り来ており、これ以上の引き延ばしは日本に不利と判断し、やむを得ず、6月19日条約に無勅許調印したが、直弼は締結経緯をすべて把握している岩瀬を失脚させ、条約の貨幣交換比率の問題点や是正方法を把握できなかった。条約は治外法権や関税自主権で不平等であったが、列強を同一条件においた利点もあった。例えば、その後、ロシアは軍艦を対馬に派遣し強引に対馬の一部を事実上占領しようとしたが、ロシアより強い英国艦隊がこれを「条約に反する」として排除してくれた。
安政の大獄
徳川斉昭ら一橋派は直弼の無勅許調印を難詰したが、直弼は御三家を含め、幕閣内外の一橋派をことごとく罰し失脚させた。水戸と薩摩らの尊皇攘夷派が朝廷に働きかけ、孝明天皇は、「条約無勅許調印、一橋派処分の非難と攘夷推進」を求めた密勅を水戸藩に下した。これに怒った直弼が、長野主膳や村山たか女に朝廷内の密勅関与者を内偵させ、公家や梅田雲浜らを捕縛し、橋本左内、吉田松陰ら尊皇攘夷派を斬首したのが安政の大獄(安政5年)である。これによる刑死者8人、遠島追放70人その他獄死者多数。直弼の怒りにまかせた強権発動であるが、開国による日本の将来像も、幕府体制改革の発想もなく、外交経済知識者で有能な水野忠徳を左遷し金銀交換比率で日本に大損害をもたらしたがその自覚もなかった。
桜田門外の変
安政7年1月水戸藩に、密勅の返納期限を1月25日とし、もし遅延したら斉昭を処罰し水戸藩を改易するとまで述べ水戸藩士を激昂させた。激昂した水戸脱藩浪士らの不穏な動きは分かっており、護衛を増やして万一に備えるべきとの忠告は様々あった。
斉昭の信奉する過激尊皇攘夷思想の水戸学が、その後の倒幕過激活動(薩長の江戸での放火や京での天誅殺戮の横行)に発展していったことを思えば、密勅返納などより、倒幕派に負けない幕府体制(譜代大名の一部しか老中になれないのでは有能人材の抜擢は不可能)の改革や講武所教授であった村田蔵六を抜擢して兵制改革などを実行していれば、直弼も徳川幕府も倒れることはなかったが、直弼には改革意識は乏しかった。
井伊藩邸から桜田門までわずか400m徒歩10分。沿道にせめて藩士400名程を配置して槍や鉄砲で警戒し、30分程度桜田通りの見物人を立入禁止にすればよかったが、先例に反することはしなかった。先例踏襲、因循な性格が災いした。
安政7年3月3日午前9時、直弼を乗せた駕籠は雪の中を外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。刀袋をつけた供廻りの徒士、足軽、草履取りなど60余名の行列が桜田門の目前まで来た時、水戸脱藩浪士ら18名の襲撃を受けた。最初に銃で撃たれ重傷を負った直弼は駕籠から動けず、刀袋をつけた藩士は刺客に切り伏せられ、直弼は首を刎ねられた(満44歳)。直弼の跡を次男直憲が継いだが、一橋派が実権をとると、1862年(高杉晋作上海へ行った年)、彦根藩は10万石も減封された。
直弼の死により、幕閣は因循姑息な人間ばかりとなり、先例踏襲以外には何もしなくなった。徳川御三家水戸が、徳川幕府滅亡への引き金を引いたのである。
高杉晋作と吉田松陰
高杉晋作は、長州毛利藩36万石の中級武士(200石)の長男であり、藩主の側近となり得る家柄であったから普通なら保守的性格になりがちであるが、才気がありすぎて、学問も剣術も家柄による限界もすぐに先が見えてしまい、気まぐれで破天荒な性格であった。
久坂玄瑞に誘われて下級武士や町人が入塾する松下村塾に入ったが、松蔭から、「君は天才的な才人であり、感覚で物事の本質をつかもうとするが、まず志を持ち、感覚は学問的な理によって磨かねばならない。」と諭され感銘を受けた。しかし晋作は過激に走りがちな攘夷主義者をいさめる行動をとっており単純な攘夷主義者ではない。
22歳で上海へ
通商条約により幕府だけが貿易可能となったが、幕府は1862年、わずか350t、20年使い古しの小帆船(時価3万4000両程度)を外国商人に騙され19万両も取られ、一回しか使わなかった。この幕府役人の無能ぶりに比べれば、長崎で上海渡航費600両を芸者遊びに使い果たしたが、その芸者が自らを元の主に売り戻すよう勧め渡航費用を回復できた晋作の方がましと言えよう。この中古貿易船で下級役人を上海へ使節として派遣するため、その従者を西国諸藩から募ったが、長州藩は幕府の下級役人より身分の高い晋作を幕府下級役人の従者名目で送り込むため600両もの旅費を持たせたのである。上海で、幕府役人は何も見なかったが、晋作は危険を冒して2か月間、毎日出歩き、阿片戦争に負けた清国が、列強の奴隷のような立場にありながら、列強の武力を借りて反政府の民衆を弾圧する姿を目の当たりにした。これまでの攘夷論はとても成り立たないが、徳川幕府が列強に脅されて開国し、列強の武力を借りて倒幕の志士たちを弾圧し列強の植民地化されて行くことだけは避けねばならない。そのための「攘夷」で「倒幕後は開国」だと柔軟に本質を見極めてきた。これが日本の植民地化を防ぎ、倒幕への道を切り開いた。
奇兵隊創設
翌1863年、豪商白石正一郎に10万両の拠出を求め、武士身分に因らない奇兵隊を創設した。これは武士の自己否定であり革新的と言うより破天荒である。源平の合戦以来、武士は軍事を独占しこれにより武家政権を維持してきた。武士と武士の戦いには暗黙の決まり事がある。身分により大将や小隊長が決まり、馬上の侍の下に一族郎党、足軽がつく。まず鉄砲足軽が一斉に火縄銃を撃ち合い、次に槍や刀での白兵戦になり、馬上の侍首をいくつ取ったかで手柄や恩賞が決まる。足軽の首をいくつ取っても意味はない。 ところが奇兵隊は足軽以下の農民や町人であり、奇兵隊の首をいくつ取ったところで何の恩賞にもありつけない。物陰に隠れて鉄砲を撃ってくるから白兵戦に持ち込めない。これでは危険を冒して武士が戦う気など起きるはずがない。武士の存在意義はなくなり徳川武家政権は崩壊する。天才のみが考えつく、武士である自己を否定する破天荒な考えである。事実、奇兵隊結成3年後の1866年6月、第二次長州征伐戦において、英国から購入したミニエー銃を持つわずか3千の長州軍が、10万の幕府軍を破った。
四国艦隊下関砲撃と第一次長州征伐
1864年8月、英仏蘭米四国艦隊下関砲撃後の敗戦交渉に誰も当たろうとせず晋作は長州藩全権として、列強の要求(300万両の償金、下関の開港、彦島の租借=植民地化)のうち、彦島の租借を毅然としてはねのけ長州に人物ありと英国に思わせた(幕府の親仏派栗本鋤雲が横浜の仏軍駐屯に異議を述べるどころか継続を希望したのとは大違い)。しかし9月の第一次長州征伐で幕府へ恭順派が台頭、これに追われ10月長州脱出。奇兵隊も恭順派により解散を約束させられ、萩城は接収され長州藩は36万石から東北で5万石程度に国替される寸前であった。
功山寺での決起
同年12月、晋作は長州に戻り、功山寺にて奇兵隊軍監山県狂介に今こそ挙兵すべしと説得したが無謀と山県は応じず、松下村塾の後輩伊藤俊輔のみが賛同、俊輔率いる力士隊30と他藩浪士の遊撃隊50のわずか80人のみで挙兵した。幕府に没収される寸前の長州海軍を奪取し、下関、山口を押さえ、大庄屋らの協力を得て農民兵1千400を結集。この勢いに、奇兵隊下部隊員らが山県を突き上げ200で決起、2000の恭順派の上級武士軍を破り、長州は再度反幕政権に。その総大将晋作は無私欲で新政権中枢には就かず、欧州見物に行くため長崎でグラバーに会うと、「幕府軍が長州に攻め入ろうとしている時、貴公が欧州などへ行っている場合ではない。新式銃や砲や軍艦を買って戦うべき、下関を開港すればその上がりで資金はまかなえる。」と説得され、洋行をやめ長州へ戻り下関開港を提案。その突然の「開国思想」を攘夷派・保守派両方の刺客に狙われ、芸者おうのと四国へ逃亡したがすぐに帰国。英国から武器を買おうとしたが、長崎は幕府の直轄領、敵国長州の武器購入搬出は困難で、坂本龍馬の斡旋で薩摩名義でミニエー銃3千400丁、ゲベール銃3千丁、軍艦など購入、海援隊が薩摩の旗を立てて搬入した。
薩長同盟と第二次長州征伐
1866年 1月薩長同盟成立。6月の第二次長州征伐で、幕府が招集した35藩の軍勢10万は、5方向から長州へ攻め込もうとした。迎える長州軍の陣容は概ね以下のとおり、長州出身の蘭医・兵学者で幕府講武所教授でもあった村田蔵六を桂小五郎が長州に呼び戻し、対幕府戦のために最新武器調達、1600人の農商兵の招集と訓練を行わせ、長州陸軍総督とした。晋作は柔軟にこれに従い小型軍艦わずか2隻の長州海軍総督となった。
@ 山陽道芸州口 幕府軍5万vs長州軍1千、隊長毛利幾之進
A 山陰道石州口 幕府軍3万vs長州軍1千、隊長村田蔵六
B 四国大島口 幕府軍千トン級軍艦3隻と上陸兵5千vs長州軍0、高杉晋作急襲
C 九州小倉口 幕府軍2万vs長州軍1千、隊長高杉晋作
幕府軍は30倍以上の兵力であり、同じ武器と戦法で戦うなら長州軍に勝ち目はない。しかし、@の先鋒彦根軍と長州軍との戦いは、武士と奇兵隊との戦いを象徴するものであった。
芸州口先鋒彦根軍4千は、桜田門外の変の汚名をそそごうと、関ヶ原時代の「赤備え」の鎧兜を美々しく着飾り出陣した。足軽の鉄砲は数も少なく火縄銃や旧式銃で白兵戦の景気づけのようなものであった。井伊藩の先例踏襲因循ぶりはその後も続いたのである。
これに対し芸州口長州軍1千は、動きやすい黒い筒袖の上着に立付袴の軽装。ゲベール銃が主で、ミニエー銃も多少はあったと推定されるが、ゲベール銃も雷管式のため火縄銃よりは装槙時間が短い。ゲベール銃の射程は50~100m。ライフル式のミニエー銃の射程は400m、命中精度は火縄銃とは雲泥の差であり、長州兵は全員が銃撃隊である。
井伊軍は岩国へ入るため、小瀬川を渡り始めたが、兜を含め30sもある甲冑姿では徒渉は難渋を極める。そこへ前夜中に小瀬川上流を渡り川を見下ろす小山に布陣した200と対岸の長州軍が一斉に銃撃を加えたからたまったものではない。鎧兜など何の役にも立たず川は井伊兵の血で真っ赤に染まった。井伊兵は役にも立たない甲冑を脱ぎ捨て蜘蛛の子を散らすように逃げた。井伊軍が逃げ去った跡にはおびただしい数の先祖代々の甲冑武器がうち捨てられていた。長州軍は追撃し、80名の井伊軍農兵を生け捕ったが、安政の大獄の恨みを晴らすこともせず、農兵には責任はないとして路銀を与え解放した。
晋作と村田蔵六は、「この戦争は自衛のためであり、敵国の領民の恨みを買わないよう自重せよ。」との軍令を出し、これは長州軍全体に行き届いていたのである。
彦根に帰った農兵は、きらびやかな彦根武士の惨めな負けっぷりと長州軍の丁寧な待遇、軍令の行届きを賞賛し、攻め入ることの困難さを語った。そのせいか井伊藩は戊辰戦争では徳川譜代なのに薩長側についた。
Aの石州口では、村田蔵六(大村益次郎)が、ミニエー銃を交互に間断なく撃つ戦法で圧勝。
Bの大島口では長州軍は兵不足で兵を配置しておらず、幕府軍は千トン級の富士山艦(大砲12門)ほか2隻で艦砲射撃、5千の兵が上陸して大島を占領したが、幕府兵は略奪殺戮強姦放火等やり放題で軍令不行き届きが甚だしかった。晋作は、英国から購入したわずか94トン(アームストロング砲3門)のオテントー丸1隻で、海戦ではあり得ない夜襲(日露戦争日本海海戦でも小魚雷艇での戦艦夜襲に受け継がれた)をかけ、停泊中の幕府艦の隙間を走り回り至近距離から大砲を撃ちまくった。驚いた幕府軍艦は敵と間違え味方同士撃ち合い大損害を受け翌朝には上陸兵を置き去りにして逃げ去った。そこへ第2奇兵隊500が上陸しミニエー銃で銃撃、島民も攻撃、大島を奪還した。
Cでは幕府軍は旗艦富士山艦ほか大型艦3隻、長州には貧弱な小型軍艦2隻と帆船しかなかったが、幕府軍は大型艦船を殆ど有効活用せず。最も強敵だったのは熊本兵で、洋式兵制でミニエー銃とアームストロング砲で戦ったので、長州軍は苦戦し、もしこの時、背後から富士山艦のアームストロング砲で艦砲射撃されていたら総崩れのおそれもあったが、総大将小笠原長行は将軍家茂大阪城で急死の知らせを受けその後の政争への対処のため、熊本兵らを置き去りにして富士山艦にて遁走、熊本兵らはあきれ返って帰国、小倉兵は自ら城に火をかけ逃走した。かくて幕府軍10万は崩壊。何度招集しても出兵しなかった薩摩藩をとがめる力も無く、幕府の命脈は尽きたのである。
長州の勝利は決して楽勝ではない。むしろ希有な僥倖による辛勝である。もし@の先鋒が旧態依然の井伊軍ではなくミニエー銃を多数保有していた紀伊軍であったなら、もし井伊直弼が病弱な将軍家茂ではなく慶喜を推していたら、総大将の遁走もなく、長州は滅亡していたかも知れない。彦根井伊藩は晋作と長州藩の勝利を無意識のうちに後押ししたと言える。歴史の因縁の奇妙である。
晋作は、明治維新を見ることなく翌1867年肺結核で病没した(27歳)。
高杉晋作の瞠目すべき天才性
@ 攘夷派なのにいち早く上海を見、武士の自己否定である「奇兵隊」創設。
A 四国艦隊に完敗後、列強の植民地化要求に応じず。
B 功山寺でわずか80人で決起し佐幕派を破る。
C 攘夷を捨て、英国からミニエー銃や軍艦などを購入、前代未聞の海戦での夜襲。
D 自国や自身の滅亡の危機において、敵国の民を思いやる軍令を出した胆力。
大島戦で幕府軍が大島占領後、略奪殺戮強姦放火等やり放題であったこと、晋作死亡後の戊辰戦争会津戦で、山県有朋率いる長州奇兵隊などが、略奪強姦残虐行為を行い、福島県の元会津藩子孫の長州への恨みが150年経た今も未だぬぐえていないことから見れば、兵というものは指揮官によりけりということがわかる。
明治新政府の近代的兵制創設途上で刺客に襲われた村田蔵六の死後、山県有朋がその後大正11年(85歳で死亡)まで50年、陸軍や軍政を派閥首領として支配し続けた。蔵六の近代的合理性、無私欲に比べ、非合理精神主義、派閥主義の異様な軍体質に変貌し、第二次大戦後に敵国民衆の恨みを残したことを思えば、新政府の兵制に晋作や蔵六がもっと長く関わっていれば歴史は相当違ったものになっていたと思われる。
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