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秀吉の最初の城は、墨俣一夜城である。
墨俣一夜城は、岐阜から2駅米原方面に戻った穂積にある。岐阜城の真下の長良川のホテルに泊まった私と家族一行は、タクシーを呼び、岐阜駅へ戻り穂積へ行って墨俣一夜城へ行きたいと告げると、「そんな迂回をする必要はない、このまま長良川の堤防を走っていけばすぐですよ」と言われ、そうだ、そう言えば、秀吉と小六は、この敵城の裏山から敵の目を盗み、材木を筏として流し一夜城を築いたのだと思い出した。本で読んでいても現地を見なければそんなことすら分からない。岐阜城から長良川に沿って10分位で墨俣一夜城に着いた。これまで墨俣一夜城は、一本の川の中州に造ったのかと想像していたが、実際はそうでない。木曽三川の三角州は支流が網の目のようになっており川で囲まれた陸地を輪中という。墨俣も長良川と支流に囲まれた輪中の一つであり、昔はかなり広かったらしい。
現在はここに、歴史とは何のかかわりもない新築の天守閣がぽつねんと立っている。実際にはここに天守閣など築かれたことはなく、馬防柵と櫓、陣屋程度の城(しかし数千人は入れる)が造られただけである。
この城を造るため、信長の重臣佐久間信盛、柴田勝家らは莫大な費用を使い建築材料を持ち込み、大工や兵を連れて行ったが、川の中で敵にさんざんに蹴散らされて二度も失敗し莫大な損害を被った。秀吉は信長からわずか銭五〇〇貫だけをもらい、野武士を使い敵地の材料を使い、一夜にして、まず二重の馬防柵を作った。これにムシロを掛ければ即席の城壁となる。馬は土塁は飛び越えるが柵の前では立ち止まる。そこをムシロの陰から鉄砲で打つ。城壁などはさしあたり紙を貼り付けて城ができたという心理的効果だけを与えればよい。秀吉の考え方は徹底的に合理的で城作りの伝統や先入観念に全くとらわれていない。敵城の咽喉元の川中での秀吉の成功には人の意表をつく斬新な発明と人を動かす新システムが導入されており、さすが天下人なったその後の姿がここに凝縮されている。
一夜城は町の資料館となっているが、その時は、私と家族4人しか来客はなく、わざわざタクシーで来た私達に、館長が非常に親切に「ご希望どおりの時間でご説明しましょう」と言ってくれたが最短時間でお願いした。
「一夜城天守閣」の窓から見上げると、岐阜城天守閣をはっきり遠望することができる。この城の美濃方への心理的効果が大きいことは一望すれば分かる。斉藤龍興の無能ぶりに愛想つきかけていた美濃三人衆は、この心理効果により秀吉の調略に相次いで寝返る。この美濃三人衆を味方につけた人脈は、後の秀吉の天下取りに重大な役割を果たす。一夜城脇から湧き出ている井戸水「出世水」が乾いた喉にやたらおいしく、子供達とたらふく飲んだ。
一夜城の周りには、輪中の生活で洪水から逃れるため一段高く石垣を積んだ水屋風の建物が転々とある。
墨俣は古代から近畿と東国を結ぶ交通の要衝であった。天智天皇の後継争いで大海人皇子がここから美濃へ逃れ、態勢を立直し勝利した壬申の乱(六七二)の時、一時かくまった場所という伝えもある。
墨俣は小さい町だが、古い宿場町の様子をよく残している情緒のある町であり、一夜城だけでなく町を散策するのも楽しい。
秀吉はここで、人材こそ何物にも替え難い財産とみて、努力を尽くし、美濃方の軍師竹中半兵衛を迎えた。中国の三国志でいえば劉備玄徳が諸葛孔明を迎えたのと同じである。城というものは、どんなに堅牢に造っても、落ちない城はない。要は人であり経済力であるということを、秀吉はよく知っていた。この秀吉も晩年は、秀頼のため、莫大な費用をかけ、大阪城に三重目の濠を作ったが、これが全く無駄であったことは歴史が示している。秀吉といえども絶対権力の堕落の法則と老いには勝てなかったということである。 |