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秀吉の次の城、長浜城は、安土から琵琶湖添約30Km北方の北国街道の要にある。米原から北陸線で3駅目の長浜駅のすぐ目の前に最近造られた小さな天守閣が見える。
この天守から見ると、賤ガ岳の合戦で秀吉が柴田勝家に勝ったのがなるほどという地の利がよく見える。 姉川の戦いで近江の浅井長政と越前の朝倉義景を滅ぼした信長は、秀吉に近江一八万石と浅井の堅城小谷城を与えた。秀吉は難攻の山城よりも、交通商業の便のよい琵琶湖のほとりの今浜に城を造り長浜と改名した。
近江は古代から日本の要であった。天智天皇は白村江の戦いに敗れた後、都を近江の大津に移した。義経も一時ここに潜伏したし、木曽義仲もここで態勢を整え京の平家を攻め、自ら義経に追われ近江の粟津で敗死した。鎌倉時代は佐々木道誉の城があり、足利尊氏の謀反の意図を知りながらここを通したからこそ六波羅が落ち、北条が滅んだ。その足利将軍も天正元年には信長に滅ぼされた。
天正三年に完成した長浜城を秀吉は第二の故郷として愛したが、山崎の戦いで明智光秀を討伐した後の清洲会議では、柴田勝家にあっさりこの城を引き渡している。
天守から北方をみれば、秀吉の遠謀のほどがよく分かる。琵琶湖北端の賤ガ岳の更に北方には今庄の峻しい山々が敦賀湾まで連なっている。この山を境に日本は表と裏に分断されている。長浜は米原より北の北陸線の駅ではあるが、北陸ではない。北陸トンネルなどあるはずもない昔のこと、雪深い北陸と表日本の長浜とは、冬ともなれば完全に分断され秀吉の支配下に孤立する。実際に秀吉は、夏に渡したこの城をその年の冬には戦わずして取り戻している。
しきりに感心している私を尻目に、我が子供達は、城見物記念メダルを買うことと記念スタンプを押すことにしか興味を示さない。我が奥さんに至っては、「もう城はいいわ」などと言って駅から動こうともしない。
この子供達が将来、何故あんなに城ばかり見て歩いたのだろうと興味を持ったときのために、これを書き記しておこうと思い立った次第である(平成6年8月散歩)。
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