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戦国歴史散歩
   
賤ガ岳
   賤ガ岳の戦い  賤ガ岳は信長後誰が天下を取るかを決める「関ケ原」であった。 北陸線の木ノ本駅は、米原から敦賀への中間点、琵琶湖の北端にある。駅前には貸自転車屋など何もない。駅正面の狭い路地を少し行くと古い宿場町の面影があり北国街道へ出る手前に一軒の自転車屋がある。親子4人で自転車を借りたいと言うと「お客さんどちらから?」と聞く、「東京から賤ガ岳を見に来た」と答えると、親切に貸してくれた。  木ノ本駅から自転車では登り道でつらいが10分位で賤ガ岳の麓に着く、リフトで山頂近くまで運んでくれる、リフトを降りると眼下に琵琶湖の北端を見渡すことができ、景観に息を飲む。歩いて10分位登ると賤ガ岳山頂に着く、ここは余呉湖と琵琶湖の両方を見渡せる絶景の場所であり、佐久間盛政が、夜陰にまぎれて攻め入りまた退却した道筋を見降ろすとができる絶好の位置である。秀吉はここに立ち、はやる家臣団を押さえ、ここぞという好機に最後の采配を振った。  吉川英治、海音寺潮五郎、司馬遼太郎、山岡荘八、津本陽の本を読み絵図を見ても、ここに立って見るほどには分からない。ここに立って見ても本を読まなければ、単に美しい景色しか見えない。本を読み史跡を散歩することによって、面白みが倍増する。  それにしても琵琶湖の北端は不思議な地形である。琵琶湖が陥没して湖となった後に山が隆起したのか、琵琶湖と余呉湖は山の尾根により完全に分断され、馬蹄(U字)形に山々に囲まれた余呉湖の水は琵琶湖へ直接流れ込まず、賤ガ岳や大岩山や岩崎山を迂回して流れるため余呉湖東岸は大湿地帯となる。このため佐久間盛政隊はこのU字の端から端をぐるりと迂回せざるを得なかった。しかしこれは大変な冒険である。賤ガ岳はこのU字の底辺にあり、この下の道を押さえられてしまえば、U字の反対側に取り残された盛政隊は袋のねずみとなる。秀吉陣地の内、この大岩山(高山長房)や岩崎山(中川清秀)や賤ガ岳(桑山重晴)の防備が手薄(それぞれ約千人)だったのは、この地形をみれば、敵が第二陣でもあるこの陣地を攻めて来る可能性はまず考えられないからだ。寝返った山路正国がここが手薄だと教えなければ盛政もここを攻めることはなかったろう。  盛政は、約八千の兵で岩崎山(中川清秀)を攻めたが、さすがに約三千の柴田勝政隊は賤ガ岳の押さえとして配備した。  ここからが事実は小説より奇なるである。秀吉に奇跡的な幸運が重なる。 @ 中川清秀が、負けが必至の戦いに弧軍奮闘玉砕してくれたこと。大岩山の高山隊が負け必至と見てさっさと退却したのに比べ、特筆に値する。清秀は摂津茨木城主で、山崎の合戦では先鋒を務め戦功を挙げたが、秀吉のことを信長時代からのくせで「さる」と呼んでいたらしく、それで秀吉もこんな第二陣の敵と相まみえそうもないところに配置したのだろう。清秀もくさって備えを怠っていたところ、そこがかえって敵に第一に狙われるところとなった。清秀は頑固者であり、高山や桑山の退却勧告にも従わず、一人になるまで頑強に抵抗し玉砕した。山上の敵が頑強に抵抗すれば、下から攻め上る者はかなりの犠牲を強いられる。前夜からの不眠の進攻と未明から午前十時頃までの戦闘に盛政隊も疲れ、そのまま賤ガ岳を攻撃せず一息入れる。 A 賤ガ岳の桑山重晴は、盛政に降伏した上で、昼の間は味方への体裁もあるから空砲でも撃ち合っていて、夜になったら砦を明け渡すと言って時間稼ぎをしたこと。これが秀吉が大垣から大返しをして来る時間を稼いだ。 B 岐阜城の信孝を翌日(四月一九日)総攻撃しようとした秀吉本隊二万は前夜からの大雨で揖斐川を渡河できず、大垣で滞陣していたこと。  無線や電話のない時代のこと、これらの偶然の重なりは奇跡的としかいいようがない。  しかし秀吉の真骨頂はここから始まる。二万の兵が大垣から木ノ本まで移動するには、常識的にはまる二日かかる。今夜又は明朝、賤ガ岳を落とせば十分だ。そうしておいて柴田勝家本隊の出動を促し、秀吉留守の木ノ本の敵本陣を突こうと盛政が考えたのは、当時の常識から見ればもっともである。  ところが秀吉は、常識外のことをやった。備中高松城からの大返しと同じことをそれ以上の新工夫とスピードで行った。  約10kgの甲冑を来た二万の兵が槍や鉄砲を持って腰兵糧を使いながら行軍する時の平均時速は、我々がゴルフで歩くスピードの2〜3倍とみても時速2〜4kmがいいところではないか。大垣から木ノ本までがどれ程の遠さかは電車に乗って見れば分かる。JRの距離でみても大垣から米原まで36km、米原から木ノ本まで22km合計58kmある。曲がりくねった道ならば60q以上はあったであろう。時速2kmで30時間、時速4kmで15時間である。これを盛政にはまるで信じられない速さのわずか5時間で戻って来た。時速12kmというおそるべきスピードである。  常識的なやり方ではこれは不可能である。秀吉は兵士をみなマラソンランナーに仕立てた。甲冑武器はみな捨てさせ、裸同然で走らせるのである。街道沿の民家には松明を焚かせ、炊き出しのにぎり飯や飲み物を置かせる。これを食べ飲みながら兵士は全力疾走する。わらじが擦り切れれば取り替えが置かれている。沿道の声援に励まされながらランナーはひたすら走る。甲冑武器は別途長浜城から琵琶湖の北端へ向け船で続々送られ、兵士はここで新たなものをつけ戦闘態勢に入る。秀吉はすでに、近代的な分業体制を取り入れていた。  賤ガ岳の山頂から余呉湖の反対側を見下ろすと、はるかかなたに北国街道を見下ろすことができる。これが遠々と続く松明の列となり、兵が続々戻ってるの見たときには、盛政はどれほど度肝をぬかれたことであろう。すわ大変とばかりに、総退却を命じた。しかし攻める時と逃げる時とでは兵の心理は雲泥の差である。取り残されれば袋の鼠だ。急ごうにも、山は峻しい、道は暗く狭い、八千もの兵は大難渋したが、それでも盛政の兵は勝政隊の援護もあり、無事退却できた。しかし勝政隊にはもはや援護はない。兵はわれ先にと浮き足立っている。満を持した秀吉本隊は、秀吉の「かかれ」の号令の下に、賤ガ岳からなだれをうって襲いかかる。「賤ガ岳の七本槍」の手柄話とはこの時のことだ。盛政隊が反撃しようとした途端、前田利家が戦わずして退却を始め、勝家軍は総崩れを起こし惨敗した。  戦前の尋常小学校の教科書では「賤ガ岳の七本槍」のみが強調された。忠義の見本とされたのだろう。しかし秀吉勝利の直接の要因は、前田利家の内応的退却である。そして勝利の布石は、秀吉の大垣からの瞬敏な大返しである。 それを可能にしたのは秀吉の新工夫と民を味方につけた分業体制である。日本でマニファクチャー生産が始まったのが、江戸時代の末期であることを考えると、秀吉の先見性には驚かされる。普通の人間には考えつかない創意工夫と先見の目を持った者でなければ、戦国時代を勝ち抜くことはできなかった。 秀吉の勝利の要因は 1 民や下々を含め人の心理を良く知りこれをうまくつかんだこと 2 信義を重んじ約束を守ったこと 3 一人よがりとならずよき軍師を手元においたこと 4 新工夫と迅速性 5 軍事一辺倒でなく、政治的・経済的優位を重んじ、大局的見地か ら物を見、実行したこと  右の5番目が特に重要である。戦国時代も信長以前までは、正に弱肉強食、騙し討ちであろうが何であろうが勝った方は生き残り、負けた方は滅び去るしかなかった。賤ガ岳、その前提である清洲会議、山崎の戦いのころからは、各大名は大局的に勝ちそうな体制側につく、勝ち負けは予めその体制を作るかどうかで決まるという状況が生まれた。秀吉がそういう状況を作ったとも言えるし、戦国時代が終わりに近づき天下が統一される直前になったのでそういう状況が生まれたとも言える。秀吉は、大局的な体制を作るのがうまかった。彼には名家の血統という権威はないから、もっぱら利の約束をしそれを誠実に守ることしか人を引き付ける方法はなかった。これは契約原理の一つである。累代の重臣という身分的繋がりといえども簡単に裏切られるというのが戦国時代の常であったから、この点でも秀吉の方が有利であった。利の約束をするには、経済力がものをいう、諸々の利害を調整するには中央(京の近く)にいた方がよい。これら全てに秀吉は布石を打った上で賤ガ岳を迎えている。  軍事一辺倒で、外交も政治もなく、アメリカに渡った経験のある一プロゴルファーすら無謀と見た戦争を、大局的見地から見ることの出来なかった戦前の日本の指導者など、さしずめ柴田勝家といったところか。経済のみあって政治や外交のない現在の日本の状況は、当時の秀吉の知恵より劣るのではないか。  それにしても賤ガ岳から見る琵琶湖と余呉湖の眺めはいくら見ていても飽きないほど美しい。この余呉湖の水が血で真っ赤に染まったというのだから、戦はおそろしい。戦国時代に生まれなくてよかった。しかし秀吉の先進の知恵には、現代でも学ぶべきものが多くある。 (平成6年8月散歩)。
   
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