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戦国歴史散歩
   
備中高松城
   備中高松城の水攻め  秀吉の足跡を歩いてみると、乗るか反るかの転換点で、奇跡的な幸運に恵まれている。しかもその幸運を必然とするような布石を人がまねのできない斬新な発想で打っており、感心させられる。応仁の乱以降百年も続いた戦国時代を、家柄や血筋ではなく実力のみで天下統一しただけのことはある。備中高松城の水攻めと賤ガ岳の戦いは、まさにその転換点である。  備中高松城跡は、岡山から吉備線で四駅目の備中高松にある。私と家族は、朝6時56分東京発の「のぞみ」で岡山まで行き、都電を二両連結したような吉備線に乗り換えた。吉備線沿線は田園風景が残されており古い遺跡があちこちにある。備中高松駅に着くと駅が貸自転車屋を兼ねており、私達は早速4台借り散歩に出かけた。駅から5分位で城跡に着く。道路脇の小規模な公園で、さして広くない本丸跡には清水宗治の首塚があるだけである。歴史を知らなければ、何の変哲もない所である。予め電話してわざわざ開けてもらった資料館も宗治の木彫りや手紙の写真程度の資料しかなかった。しかし周りが田園風景だけに、水攻めの規模と様子を現地で実感することはできた。  城跡は、道路との高低差が殆どない平地(水面比4m)で、周りは田んぼである。堤防が築かれた所は、はるか遠くで、今も一段高い街道の街並みとなっている。遠望する高所がないので全体は見渡せないが、その延々たる距離は実感できる。  駅の近くの山と田が接する所に、当時の堤の跡がわずかに残っている。その付近で買い物から帰って来たらしい奥さんに「堤防跡はどこですか」と聞いたが、「さあ知りません」との返事であった。歴史は地元でも知られていないことはよくある。高知の後藤象次郎邸跡の目の前で「後藤象次郎の家はどこですか」と聞いたが、知りませんと答えられたこともある。しかし聞くまでもなく、自転車で田んぼ道を少し行くと、「蛙ケ鼻堤防跡」という標識があり、田んぼの真ん中に、わずか20〜30m山端から蛙の鼻ほどに突き出した小高い丘があった。日差しをさえぎるもののない田んぼの中の唯一の木陰で、野良仕事の人達が昼食を食べていた。観光客などおよそ来そうもない所である。 ここから城を取り囲み、約3Kmにわたって堤防を築くというのは、なかなか大変なことである。堤防のもう一方の端、足守駅まで自転車で行ってみたいと思ったが、下の子供(小4)が「喉が乾いた、おなかがすいた、早く駅に帰ろう」と言い出し、到底不可能であった。  太閤記をもとにした歴史小説によると、秀吉は、天正10年5月8日からわずか12日で、高さ約7〜8m、底辺約22m、頂上約11mの堤を約3Kmにわたって築いた。折り良く降り続いた5月の大雨で増水した足守川の水をこの堤の中へ入れ、5千の兵のたてこもる城の天井まで水浸しにした。兵は屋根や木の梢にまで避難したが、二週間も経てば水死か餓死が目前に迫った。堤防上に配備した2万の兵で囲む秀吉軍に毛利の援軍7万はなすすべもなく講和を申し入れる。6月2日早暁の本能寺の変を毛利方に伝える使者が秀吉陣地に偶然捕捉されたのが3日夕刻、その日の深夜に、城主が割腹すれば城兵5千は助けるとして和睦締結、4日午後、城主清水宗治が衆人見守る湖上で割腹開城、6日から秀吉軍二万の兵は、武器甲冑を荷駄隊に預け、身軽となって脱兎のごとくひた走る。行軍1日55Km、行軍中も「信長存命、秀吉大軍を率いて行軍中、有力武将は皆秀吉に味方」との虚実とりまぜた情報を矢のように流し、結局、山崎到着までに、全ての武将(光秀の親族まで)を味方にするという体制を作り、6月13日山崎の戦いで光秀を討つ。  日付の流れを見ると奇跡としか言いようがない。  @堤による水攻めでなければ、  A5月で大雨がなければ、  B毛利への使者が捕捉されなければ、  C清水宗治がいさぎよく割腹しなければ、 迅速な和睦、大返しは不可能で、秀吉の天下はありえなかったであろう。  しかし水攻めの奇策を考案しこの日数で実行したという布石があったからこそ強運を招いたとも言える。  一口に7〜8mの堤を3Kmと言うは易いが、もともと泥沼を天然の要害としていたところである。この泥沼の中に3階建の建物を3Kmにわたって作ることの困難さを想像すればよい。しかも水面を城の高さに合わせるというのは、相当高度な土木測量技術が必要である。堤の一断面には千個以上の土嚢が必要であり、千個積んでも1mしか進まない。これを敵城の目前で妨害と戦いながら3千mというのは、大変な作業である。12日での完成は驚異的というほかない。  首塚の前で「宗治饅頭」を売っている「清鏡庵」のお爺さんは歴史に一家言を持っている地元で有名な人であるが、「その日数でそんな規模の堤防ができるはずがない、太閤記の記述は勝った側の自慢話で嘘である、ここらは数年に一度は洪水となるところだ、秀吉は稀に見る幸運児で、本能寺の変の前に城を取り囲んだところ、運良く大雨で洪水になっただけだ」というのが持論である。  しかし私は、これまで墨俣一夜城、長浜城、賤ガ岳、大阪城などを見て来た結論として、秀吉なら、一般常識ではできないことをやったに違いないと思う。現地を見て、なるほど困難なことであるとの感想は持ったが、この結論にゆるぎはなかった。単なる洪水なら取り囲む秀吉方こそ被害を受けたはずで、城主割腹開城という和睦がその日のうちにできたというのは、それほど大掛かりな水攻めの装置ができていたからこそ毛利軍も手を出せなかったのだろう。  秀吉は、土嚢一つにつき、米一升銭百文払うとの触れを出した。俵に単に土を入れて持っていけば米と銭がもらえると聞けば、はるか遠くからも、おびただしい土嚢が集まったはずである。  この水攻めの前年(天正九年)の鳥取城の兵糧攻めでは、秀吉はもっと大規模なことをやっている。若狭の商人を使い、鳥取城下の米を時価の数倍の値で買い占めた上、6月には、鳥取城を延々12kmにわたり囲む長城(壕・土塁・塀に約1km毎に三層の櫓)を築いた。陣中を馬で通行しても敵の矢玉に当たらないほどの高さだったというからその規模が推測できる。この蟻も漏らさぬ包囲網に4千の兵らの籠もる鳥取城の米蔵は7月には底をつき、10月には餓死者が相次ぎ、城主吉川経家は城兵の助命を請い割腹した。ちなみにこの当時、城主のみが割腹し城兵や避難農民を助けるということがよく行われた。後の太平洋戦争で無意味な全兵士の玉砕を強いたのと大違いである。  この鳥取城の兵糧攻めに4か月かかっていること、その前の三木城の兵糧攻めに22か月もかかっていることを思えば、備中高松城の水攻めの際、わずか12日で堤を築き、それからわずか14日で開城させ、それゆえ本能寺の変後の対処に間に合ったというのは、奇跡としかいいようがない。  翌日、信長の死を知った毛利方は、逃げるように退却しつつある秀吉軍を追わなかった。秀吉の能力、秀吉が約束を守る人間であることを認めたからであろう。同じ頃、富山県の魚津城を攻めていた柴田勝家が、開城すれば城兵を助けると約束しておきながら皆殺しにしたため、上杉方の恨みを買い、本能寺の変を聞いた後も迅速な退却ができなかったのと対照的である。  秀吉の勝利の秘訣は、 @ 技術力の優位ー迅速正確な土木技術、大規模かつ組織的に人を動 かす新システム、経済力の優位、情報探知・情報操作の優位、これらと軍事力を合わせ、知恵と政治力で、闘わずして勝つ(武力よりも徹底した経済封鎖によって相手の投降を促した)ことを主眼としたこと。 A 常識外の工夫と常識外の迅速性(人は命令よりも利によって動く ものであることを知り尽くし、経済力を最大限に活用した) B 利をもって調略したが、投降した相手との約束を守り、人心を集めるにたけていたこと  信長や勝家が、しばしば約束を破ってだまし討ちにするのも兵法のうちと考えていたのに対し、秀吉は近代的な契約原理や経済法則の萌芽ともいうべきものを身に付けていた。 稀に見る幸運児ではあったが、幸運だけで時代を動かしたわけではない(平成7年8月散歩)。
   
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