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備中高松城での和睦の翌日、本能寺の変を知った毛利軍7万が、これは秀吉に騙されたのだから破棄すると宣言して、そのまま追撃していたら、秀吉の天下はなかった。
三方が原で徳川家康を完膚なきにまで破った武田信玄がそのまま京都まで攻め上れば、信長も秀吉も生きていなかった。信玄の突然死は信長、秀吉の九死に一生という幸運であった。石山本願寺と呼応した上杉謙信の突然死も同じである。これら二人は信長を滅ぼし天下を取ろうという意欲を持っていた。
これに対し、毛利は、石山本願寺支援の兵糧米を搬入するため、信長の水軍を一度は破っているものの、あれほどの大所帯でありながら毛利輝元自身京を目指し天下を取ろうという行動をとっていない。
輝元の祖父毛利元就は、なかなかの智将であり、安芸の郡山の小城主から一代で中国地方の二大名門大内氏、尼子氏を滅ぼし、一大勢力を築いた。元就は、郡山城にわずか二千の兵で籠城しながら巧みな戦法で3万の尼子軍を撃退しているし、安芸の宮島で、わずか4千の兵で大内軍2万を奇襲し壊滅状態に滅ぼしている。これは謀略で敵に海路をとらせた上、狭い宮島に2万の兵が身動きも取れないほど密集しているところを、4千の兵で夜襲をかけ寝込みを襲い壊滅させたという巧妙かつ大胆な戦略をとったものである。一大勢力となってからは相手を取り囲んでおいて、投降をうながすという迂遠ではあるが着実な戦法で、一つ一つ城を落とし75歳で死ぬまでに、中国地方全体にまで勢力を広げた。吉川元春、小早川隆景も元就の子であり、有名な「一本の矢はたやすく折れるが、三本束ねれば折れない」という遺訓を守り一致団結してよく戦った。元就の長男隆元は元就より早く死んだので孫の輝元が、跡を継いだが、凡庸を見抜いた元就は、自分の死後は天下を望んではならないと遺言している。
輝元は、上月城を取り囲み、秀吉を敗退させ、籠城した尼子残党を一掃した際も、一気呵成に姫路の秀吉を攻め、上杉、石山本願寺と呼応して上洛しようとまでしていないし、備中高松で本能寺の変を知った後も秀吉の後を追わなかった。追撃すべきとの強行論を押さえたのは、智将小早川隆景であった。追わなかったのは正解と言うべきであろう。毛利自身、中国地方を押さえてまだ日も浅く、自国を空にして攻めのぼるのは足元の危険があったであろう。信長発明の巨大鉄鋼軍艦に毛利水軍が破れたことからも、軍の装備に差があった。中国地方を押さえているに過ぎない毛利に対し、織田方は、近畿、中部、北陸に山梨、大阪、兵庫に岡山、鳥取という膨大な地域を押さえており、経済力の差も大きい。秀吉や光秀を破っても、柴田、丹羽その他が一致団結すれば危ない。ここは自重が正しい情勢判断であったといえよう。
毛利は元就以来の伝統で、情勢判断を厳密に行う。そのための敵情視察を徹底して行う。こちらの作戦会議すら相手に漏れることを予定の上、敵を欺くにはまず味方からということまでやっている(これに比べ太平洋戦争のミッドウェーの戦いでは、こちらの作戦は相手に筒抜けで、余りにもお粗末である)。
天下を取った後、秀吉は毛利とその三兄弟の中で、追撃をとめた小早川隆景を優遇した。隆景は自分への恩賞を本家の毛利に譲り、毛利は9か国112万石の五大老の一人となり、小早川は筑前と筑後肥後の一部30万石と秀吉の姉の子秀秋を養子にもらい、52万国の大国となった。 |