山田法律事務所
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戦国歴史散歩
   
関ヶ原
 
 秀吉の毛利三兄弟分断策が、秀吉が死んでから功を奏したものか、関ケ原では、毛利、吉川、小早川は、全くばらばらの行動をとっている。毛利輝元は大阪城で西軍の大将の立場であったが、関ケ原まで出て来ず今一つ積極性がない。吉川広家は徳川につき、小早川秀秋は優柔不断の典型で、西軍として松尾山に陣したが、東軍とも内通し、迷いに迷ったあげく、家康に脅かされて西軍を裏切り、家康に九死に一生の勝利をもたらした。毛利は取りつぶされるところとなったが、東軍で軍功のあった吉川が自分の恩賞を本家の毛利に与えて欲しいと頼み込み、かろうじて長州37万石の一小国として残った。小早川秀秋は、秀吉の身内でありながら徳川に味方し豊臣を滅ぼした自責の念からか早死し、結局、小早川は断絶させられた。

 関ケ原は、米原から四駅目(20分位)にある。私と家族一行は、墨俣の古い町並を通り国道に出て、バスで大垣に向かった。大垣から関ケ原まではたった二駅であるが、電車の便が悪く一時間近く待たされた。その間に駅近くにある大垣城を見ておきたかったが、歩き疲れて誰も動こうとしない。これを見なければ関ケ原の戦いの真髄は分からないのにと思ったが、一日で岐阜、墨俣、関ケ原を歩き回ろうというのは無理だったかと思い直した。しかし帰宅後やはり大垣城を見てから関ケ原へ行くべきだったと後悔した。初めて重要な史跡を訪れるには、最も感動を味わえる順を踏むことが大事である。しまったと思って、二度目に正しい手順を踏んでも、もはや初めてのような感動を得ることはむつかしい。例えば、桶狭間をみてから清洲城を見るべきではなく、清洲城の小ささ、頼りなさを見て、ここで夜中に信長がむっくり起き上がり、妻がさしだす湯づけ四杯を流し込み、出陣のほら貝を吹かせると同時に、ただ一騎で熱田を目指したのだなという感慨に耽ってから、桶狭間を見る方が感動が大きいのは当たり前である。手作りの歴史散歩をするからには、事前にこの手順を考えるのが肝要である。

 そもそも何故関ケ原が決戦場になったのか。関ケ原は北国街道への分岐点である(今でも国道が交差している)。家康が大垣の手前の赤坂まで来た頃、石田三成は大軍を擁して大垣城にいた。そのまま大垣城に籠城し二〜三か月の長期戦になり大阪城の毛利輝元が来援すれば徳川は危なかった。そこで家康は、大垣城は素通りし三成の居城佐和山城を襲うとの虚報を流す。三成はまんまとこれにひっかかり、そうはさせじと前夜大垣城を出て、佐和山への北国街道を厄す関ケ原に布陣した。夜中大雨の中を三成の軍勢と家康の軍勢が相前後して関ケ原を目指したが、朝いよいよ霧が晴れてみると、西軍は関ケ原を取り巻く山々に布陣し、徳川勢は完全に取り囲まれていた。

 関ケ原の駅は何もない閑散とした駅である。自転車預かり所にて自転車三台借り、一台の荷台に座布団を縛り付けてもらい下の子供を乗せて散歩に出た。駅の北側はなだらかな上り坂に田園風景が広がっており田圃道の中に、決戦場跡の石碑や石田三成陣跡などの碑が立っているだけである。これでは観光バスも入れないし、さしたる景勝でもない原っぱで石碑だけを見ても、たいがいの観光客は満足しないらしく、観光バス専用の「ウォーランド」という合戦人形を並べ立てたかなり広い所が作られている。念のために入ってみたがやはり歴史散歩には全く不要であった。そのために松尾山へ行けなかったことを後悔した。

 三成陣跡から眺めると関ケ原は一望に見渡せ、地の利は家康陣よりはるかに有利である。もし西軍の包囲網が一斉に襲いかかっていたら徳川は敗退していたであろう。戦は地の利のみで行うものではなく、将たる者に人望と政治力がなければ勝てるものではない。三成に呼応して布陣した西軍各将は家康の政治力により模様眺めをするものが多く、意気盛んに闘うのは、大谷吉継勢位のものであったが、それすら徳川勢は攻めあぐねていた。松尾山で模様眺めをして、迷いに迷ったあげく家康に鉄砲を打ち込まれ、脅かされて急遽、大谷勢に襲いかかった小早川秀秋が、裏切らず徳川勢を襲っていれば徳川は敗退していたであろう。また、もし西軍の総指揮者が石田三成ではなく、毛利輝元自身が取り、吉川、小早川が一致団結してこれに協力していれば、やはり徳川は敗退し、毛利が秀吉後の天下を取っていたかも知れない。しかし毛利にはそのような意欲は全く感じられない。やはり信長と同時代の修羅場をくぐった家康と元就から三代目の輝元の差であろう。しかし関ケ原の恨みを300年抱き続けた毛利藩の家来達が、徳川倒幕の急先鋒になり、明治の元勲となった。

 松尾山での秀秋の迷いと決断こそ関ケ原の真髄である。

 ところで「関ヶ原」の「関」とは、壬申の乱で天武天皇が逃げ込んだ「不破の関」のことであり、その関跡が駅近くの民家の庭に現在も残っている。この関所の壬申の乱以前の歴史は謎でありその推理は面白いが後日にしたい。

家康の勝利の秘訣は、

[1] 常に天下を狙っていたが、大局的見地から情勢判断を行い、無理な拙速主義に陥らない

[2] 自己に有利な土俵で闘うため偽計をもって相手を誘い出した。

[3] 敵を分断し政治外交力をもって敵の戦意を緩和し味方の優勢を作った。

[4] 巧妙な配置転換や制度によって安定的な支配網を日本全国に張り巡らした 幸運児ではあったが秀吉ほどの稀に見る幸運児でもなかったため、権力を握ってからも慢心せず自らと子孫を戒めた。

家訓  人生は重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。  決して急いではならない。

 心に望みが起きたら最も困窮したときのことを思い起こせ  堪忍こそ大切である。

 勝つことだけではなく負けることも知らなければ必ず身を滅ぼす。慢心してはならない。

 (平成5年8月散歩)
   
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