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1 ミッドウエー
太平洋戦争敗北の転換点は、奇襲のつもりのミッドウエーで反対に奇襲を受け、空母を全部撃沈され大敗北を喫してからである。
その時点での彼我の海軍戦闘能力は、こちらがはるかに優位であったのだから、[1]南雲中将が機敏にもう少しでも早く攻撃機を飛び立たせていたら…、[2]索敵機をもっとたくさん飛ばせて敵空母をもっと早く発見していたら…、[3]空振りに終わった第一次空爆隊が「第二次攻撃を要す」などという不正確な簡略打電ではなく、「敵はいない、避難していて味方を奇襲するおそれあり、第二次攻撃隊はこれにそなえ索敵を厳重にせよ」とでも打電していれば…、[4]山本長官座乗の戦艦大和が味方空母群を護衛していれば…、[5]せめて敵空母の無線を傍聴した大和がこれを空母赤城に知らせてやっていれば…、[6]これに先立つ珊瑚海海戦で敵空母レキシントンだけでなくヨークタウンも撃沈させておけば…、[7]そもそも真珠湾奇襲を空母だけでなく巡洋艦や戦艦をもっと同行させ索敵を徹底させ、敵空母を全部撃沈し、軍事施設・石油タンク等を艦砲射撃で徹底破壊しておけば…等々戦術的なことが最近様々言われている。
これを戦国武将の目でみれば、桶狭間の奇襲を成功させた信長ならば、敵の動きの把握にもっと意を向けたであろう、二度目の奇襲などというばかなことはやらなかったろう、宮島での奇襲を成功させた毛利元就職ならば、奇襲意図を隠すため、直前の作戦会議でも、味方すら欺き敵の裏をかいていたであろう。家康ならば、敵を欺き、ミッドウエーなどではなく、もっと自分に有利な土俵へ敵をおびき出していたに違いない。
しかし家康の目から見れば、そもそも開戦の大局的情勢判断がなっていないということになるであろう。
2 開戦の情勢判断
一体何の目的で、誰と闘おうとしたのか。 米の対日要求ハルノートの余りの苛酷な内容に腹を立て、また石油禁輸で一年後には戦艦も戦闘機も宝も持ち腐れとなることを恐れ、世界の大半を相手に、自暴自棄の戦争を始めた(それが当時のルーズベルトの思うつぼでもあった)というのでは、あまりのおろかさと犠牲の大きさに家康も目を覆うであろう。
家康ならば、自らの実力と相手の力関係を緻密に情勢判断し、ここは自重だという判断をしていたろう(アメリカは世論と大統領の公約から自ら開戦することはありえなかった)。
3 開戦を決めたのはどのような人物か
大局を見ることができず、既存体制の価値観でしか物が見えず、目先の相手の横暴に腹を立て、必勝の体勢づくりもせず、家康の罠に飛び込んで行った石田三成と同じ官僚的な人物達である。しかし、特定の誰かということになるとドイツのようには明確でない。
アメリカでは、開戦時の首相兼陸軍大臣で後に参謀総長をも兼ねたこわもて坊主頭の東条英機こそ東洋のヒットラーであろうと目星をつけていた。しかし実際には彼は、暴走陸軍閥将校の一人であったが、日米開戦を避けたい昭和天皇の意向を受け、開戦を避けるため窮々としていたが、目先しか見えぬ官僚的思考の雰囲気に飲み込まれて多数愚見に従い、ただひたすら真面目に目先の仕事の遂行に励んでいただけの人間であった。ミッドウエー、ガダルカナル、ニューギニアでの惨憺たる敗北にもかかわらず、何の対策も取らず、「サイパンへ敵が来たら我が思うつぼである」と自ら思い公言したのに、サイパンでの大敗北の後、辞職を勧告されても、何故だか気が付かなかった程の情勢判断能力の無能者に過ぎなかった。
「統帥権の独立」は軍部を暴走させた元凶であるが、開戦時の統帥部の長、天皇の次に位置する地位の軍令部総長永野修身にしても右と大差はない。東京裁判でA級戦犯とされた人達を見ても、確固たる信念とリーダーシップで開戦へ導いたという人物はいない。張作霖謀殺の頃から陸軍の中に醸造されていた驕慢と無定見な強行ムード(既存の価値観)に流されただけで、石油枯渇のジリ貧への対処方法も、中国・満州放棄という当時の国内では総スカンを食らうであろう決断も、まして新しい価値観など考え及ぶはずもない人物達である。
時代の転換点で無能な官僚に国の運命を委ねることは、狂気の独裁者に委ねるのと同じ程危険であることを教訓としなければならない。
4 英雄と官僚的人物との違い
信長は、既存の儒教や仏教思想や出身、身分、学歴等には一切囚われず、能力本位で人を抜擢した(これは当時でも現在でも画期的なことである)。秀吉の登用がその最たるものである。秀吉は信長の家来ではあったが官僚的な人物ではない。英雄的人物である。柴田勝家などは剛胆ではあるが官僚的人物である。
官僚か英雄かの区別は、その人物が既存の価値観やしきたりや規則に従ってのみ動く人間か、大局的観点から臨機応変の決断力を持ち、時代を先取りし、自ら新しい価値観や法則を創造し、強いリーダーシップを発揮する勇気のある人間かどうかによって決まる。
幕末のペリーの黒船の来航に、ただオロオロするばかりでなすすべも知らず、危うく列強諸国の植民地化を許そうとした幕府の役人達は無能な官僚の典型である。同じ幕府の役人でも勝海舟などは新時代を見とおし、倒幕の立役者坂本竜馬を育成し、又維新の混乱を最小限に押さえた英雄である。
明治維新の時、欧米のまねをして近代統一国家にしなければ、日本は欧米列強・ロシアの植民地にされるおそれがあるとの判断は先見の明であった。廃藩置県のすばやい断行、近代的海陸軍、工業、法制度等のすばやい導入も、その立ち遅れにより次々と欧米列強の餌食にされた他のアジア諸国に比べ、特筆に価する。明治の元勲達の英雄性に由来すると言ってよい。しかし明治維新にも失敗はある。西欧の物まねの植民地主義と古代制度の王政復古、国家神道である。これが後の日本の大きな悲劇の元となった。その教訓を生かすべきである。
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