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宮崎と始天皇(2011年夏)
 

 平成23年6月5日、石川県の姪が宮崎県の夫と宮崎神社で結婚したので、宮崎へ初めて行って来た。宮崎市内の宮崎神社は始天皇とされる神武天皇(わかみけぬのみこと)を祭っている。広大な森の中にあるおごそかな古い神社である。

 宮崎から車で1時間位南の鄙びた漁村の海沿いの洞窟に、鵜戸神宮があり、神武の父親(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を祭っている。右は海、左はなだらかな山と風光明媚な地であるが、海の民の遺跡といった素朴な感がある。

 戦前は神国思想から、日本書紀を鵜呑みにし、日本の紀元を西暦紀元前660年の神武天皇即位の年とした。戦後は、10代目の崇神天皇あたりからが実在天皇で、それ以前は神話であって実在しないというのが通説となっている。

 紀元前3000年、エジプトではメネス王が国家を統一、首都はメンフィス、神聖文字、太陽暦もあった。紀元前1500年、中国では商王朝、甲骨文字、干支暦があった。紀元前500年の孔子の足跡も詳細に分かっており、紀元前221年の秦の始皇帝は、呂不偉と愛人の子であって秦王の子ではないという出生の秘密や生い立ちまで詳しく分かっている。

 それに比べわが日本では、紀元前100年「倭人100余国分立」(漢書)、紀元後57年、光武帝から「漢倭奴国王」が金印をもらい、紀元後239年、7万余戸の邪馬台国の卑弥呼が親魏倭王の金印をもらい、266年、伊与が晋に朝貢したが、邪馬台国が九州か近畿かすら分からない。

 邪馬台国→大和朝廷へ移行とすると、伊与から天皇家に三種の神器(銅鏡、勾玉、剣)が引き継がれたのかも知れない。これは早くて270年頃、第10代崇神天皇の頃ではないか。この頃から550年頃までの古墳時代に日本全国に15万基の古墳が作られており、日本にはかなりの経済力があった。大和朝廷の成立は350年頃とされており、仁徳天皇の頃となる。

 崇神以前の祖先は、九州から大和へ苦難の道を何世代もかけて転戦しながら移動してきたのではないか。720年の日本書紀で、紀元前660年、神武天皇一代で大和の橿原まで来て即位したというのはちょっと信じられない。その時代に文字があるのとないのとでは歴史の記述はこれほど違ってしまう。

鵜戸神宮の風光明媚さと、宮崎市から車で1時間も南下した辺鄙な漁村の地形をみると、架空の神話を作るためわざわざこんな辺鄙な地を選んだとも思えず、やはり神武の父はここにいたのではないか思えてくる。天孫降臨はありえず、先祖は海を渡ってきて片田舎の村長程度になったのではないか。神武の時に宮崎市付近まで進出し100余りの小国の王となったのを始天皇の即位と言っているのではないか。

  魏志倭人伝に、「倭国では、もとは男子が王であったが、70〜80年間、国内は乱れ、互いに争った。そこで諸国は共同して一女性を王とした。その名を卑弥呼といい、鬼道を駆使して人々を従えた。」とあるところをみると、紀元後239年の卑弥呼から80年ほど前の紀元150年頃、神武が宮崎で小国の王となり、他の小国と覇権を競っていたというのが史実に近いような気がする。

それにしても、争っていた諸国が共同して王としたのが巫女であろう女王というのが面白い。聖徳太子が摂政を務めたのが推古天皇で女帝である。卑弥呼も武力で国を制圧したのではない。神のお告げで皆を平和的に納得させたのであろう。推古天皇も聖徳太子の徳で国を治めたのであり、この時代のことを日本人は皆誇りに思っている。

中国では、紀元前500年頃でもかなり大規模な戦争を繰り返しており、堅牢な城壁で囲まれた邑に人々は住んでいた。長安の羅生門は堅牢巨大な城壁門であるが、京都の羅生門は低い土塀とお寺の山門程度で、芥川龍之介の小説のとおりである。日本ではずっと後世の戦国時代の城壁を除けば、古代の大規模な城壁や城門遺跡はほとんどない。それほど大規模な戦闘がなかった証拠であろう。

 神からの正当な承継者という大義名分で、平和的に国が治められるならば、大規模な戦闘を繰り返すよりよほどよい。戦闘能力に優れていなくとも王になれるのなら女性でもよい。中国の則天武后は権力を極限まで感情的に濫用した(恋敵の手足耳鼻までもいだ)ので、女性の王はこりごりとなったのだろうが、日本で女帝が権力を濫用したということは聞いたことがない。

 紀元150年頃、始天皇(はつくにしらすすめらみこと)の神武が宮崎で小国の王となり、それから120年後頃に、同じく「はつくにしらすすめらみこと」と言われる崇神天皇が、伊与から三種の神器を譲り受けたのではないか。

 645年の「大化」が最初の元号で、648年に「日本」を使い始め、668年天智の即位で「天皇」の名称を使い始めたとされるが、私には、中国語の「天皇」より、もともとの日本語の「すめらみこと」の方がおごそかな気がする。

宮崎という緑が多く風光明媚で日向と言われる地が、日本の出発点というのもなかなかよい。美しい海と山に囲まれた鵜戸神宮や、緑に囲まれたおごそかな神社を見ると、日本人の独特の自然へのおそれ、気高くおごそかなものへのあこがれ、自尊心などを培ってきた長い歴史を感じる。ちなみに中国の西安にある関羽廟も神となった関羽を祭っているが、日本の神社のような規模も緑に囲まれた荘厳さもない。日本の神社は世界の聖地と比べても、独特の威厳があり、誇らしい気持ちになる。

 日本人は美しい海や山をおそれ、誇りに思い、自然を大切にして生きてきたのに、明治維新の近代以降、欧米の物まねばかりして、いつの間にか目先の利益のため自然へのおそれを忘れてしまった。今回の原発事故の原因も根源はここにあると思う。明治憲法の天皇の統帥権が戦前の軍部に利用され、悲惨な敗戦につながった。

 自然をおそれ、自然を大切にし、戦争を好まない日本人の心の原点として神社と「すめらみこと」を大切にしていった方が良いと思う。国家支配の道具や政治に利用してはならない。

 自然への思いやりは人への思いやりにつながるものである。

   
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